雑記

よいお年を☆彡

 こんばんわ。もう、紅白歌合戦も終盤。今年も残すところあと僅かとなりました。

 これまでのご愛顧に感謝して、そして、皆様の来年のご多幸をお祈りしつつ、今年最後の更新とします。よいお年をお迎えください☆彡。

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言葉の大切さ

 こんばんわ。久しぶりの更新です。

 皆さんは、何か宗教を信じておられますか??自分は、幼少の頃は教会に通っていましたが、現在は、客観的には無宗教、という感じですね。勿論、洗礼などは受けていませんし。
 もし、皆さんが無神論者であったとして、あるいは、何らかの神、仏等の存在を信じているとして、それを他人に説くことに意味があると思いますか?無神論者の方には、神が存在しないことの科学的論証が可能か、ということを問い、何らかの神、仏等の存在を信じている方には、その存在を科学的に論証可能か、ということを問うとすれば、それが可能な方は誰もいないのではないか、と自分は思います。では、それを他人に説くことに意味があるか、と問われれば、そこには一定の意味があると思われます。それは、人間は、もはや1人で生きていくことができない生き物になってしまい、何らかの価値観を共有するという作業が、共に暮らす(これは家庭を作る等の意味ではなく、同じ社会の一員として存在する、という意味です。)上では不可欠ではないか、と考えるからです。
 しかし、こういう神、仏等の存在、あるいは不存在を他人に説くときに、その前提として大切だと思うことは、自分が信じる神、仏の存在、あるいは不存在を他人に押し付けるべきではない、ということだと思います。それは、自分自身の心、あるいは信念の中では確かなものかもしれませんが、それを他人に説くという行為は、まさに、他人の心、あるいは信念の中で自分と同じ確かなものを持ってもらう、ということだからです。ハナから押し付けるとすれば、それは、ゴールを急ぎすぎて、結局、ゴールに辿り着けない、という過ちを犯すことになりかねません。では、どう説くべきなのか。まず、その前提は、共通認識の構築であると、自分は考えています。自分が説きたいことは、ずっと先にあるかもしれませんが、その前提の土台作りから始めることが肝要であると思うわけです。そして、その最大のツールは言葉ではないか、と考えます。自分が感じ、考え、あるいは発見し、もしくは疑問を持つなどしたことについて、どうすれば適切に伝えられるか、ということを考えながら、言葉を紡ぐことは、上述したゴールへの最大の近道ではないでしょうか。
 例えは悪いですが、自分があるカルト宗教の信者だとして、新たな信者の勧誘をする、という場面を想像してみてください。道端で初めて会った人を、あるいは自分の友人を勧誘するときに、のっけから「○○を信じないというのは間違えている」と言ってしまえば、馬鹿にされて終わると思いませんか??あるいは、「自分は○○を信じているのだから、貴方も信じてください」と頼んでみても、よほどの何も考えていない相手以外には受け入れられようはずがないことは、想像に難くありません。だからこそ、カルト宗教の勧誘は、あの手、この手を使って信頼の土台を作るわけです。この勧誘の際の武器が言葉だと思います。しかしながら、この作業の途中で、折角築いた土台が破壊されると、前の労力よりもかなり大きな労力をかけなければ、同じところまで戻ってはこれなくなると思います。何故ならば、前の土台が壊れたということによって、その下にあったものも崩れているからです。
 言葉を武器に勧誘するときに、一番気をつけるべきは、筋道を立てて、定義をハッキリとさせながら進めることです。
 以下は、宗教の話ではありませんが、マルチ商法の勧誘とかでは、相手の質問に的確に答え続け、相手を納得させる、という手法がとられることがあります。勿論、的確というのは程度概念ですし、数学のように答えが1つのものもあれば、いろんな答えが考えられるものはありますが、大切なことは、自分の答えと相手の認識した答えに齟齬を作らないことでしょう。偶々、相手が善解してくれたおかげで勧誘できたとしても、それは偶然の産物であり、効果的な勧誘を続けることはできません。こういう局面にぶち当たったマルチ商法の勧誘をする方が採るべき手段は2つです。まず、自分には向かないとしてマルチ商法の勧誘を諦める、という手段。もう1つは、どうすれば偶然の産物ではなく、必然的に相手を勧誘するかを真剣に考え、自分なりの工夫をする、という手段。後者で効果が出ないならば、前者の手段のみが残るわけです。まぁ、マルチ商法の場合、自分の支出と収入のバランスから、諦めるに諦められない、なんてことも往々にしてあるんでしょうが(笑)。一番迷惑なのは、後者の選択肢をとらず、さりとて、諦めるでもなしに、タラタラと同じことを繰り返す方でしょう。友人の会社の先輩に、マルチ商法と思われるものに嵌っている方がいるらしいのですが、その先輩が、友人をしつこく勧誘してくるそうです。毎回、勧誘するものは違うらしいのですが、毎回、説得力がないことをツラツラと自分の気の済むまで話して、断られてを繰り返しているそうです。友人は、結構、人がよいので、「アホやなぁ」と思いつつも、毎回、話は聞いてあげていたようですが、先日、「じゃぁ、このビジネスモデルの場合、会員に支払われる金銭の原資はどこから出るんですか」という、マルチ商法の肝の部分に切り込んだ質問をし、先輩を論破して以来、その先輩からの勧誘は止んだそうです。こういう方は、勧誘に向かないんでしょうね。まぁ、勧誘した相手がコンサルに勤める人間だけに、相手が悪い、というのもあるんでしょうが。

 ある事象が真である場合に、そこから適切な論理に従って演繹される命題は、常に真です。しかし、宗教の世界では、演繹的に論証することは、およそ不可能です。逆に、演繹的に論証が可能であるとすれば、それは宗教ではないと、自分は思います。
 しかし、世の中には、カルトも含めれば、夥しい数の宗教が存在します。誰がどの宗教の信者になるかは、極めて個人的な問題であり、他者に迷惑をかけない限りは最大限に尊重すべきことであろう、と思います。が、他者の迷惑が一定のラインを超えるならば、その宗教自体を攻撃することもあり得るのではないか、とも思います。地下鉄で毒ガスを撒くなど論外ですが、事そこに至らずとも、他者の平穏な生活を、軽微な―言い換えれば、受忍限度と考えられる範囲の―精神的苦痛を超えて、例えば生命、身体の安全、あるいは財産を奪う等の害をもたらすことは、決して許されるべきではないと考えるからです。
 自分が信じるように、他人も何かを信じているということを、そういう方には是非、ご理解いただきい。自分が信じているものを信じてもらいたいと思うならば、まずは、共に何かを信じるに足るだけの土台作りに勤しむべきである、というのが結論です。ツーと言えばカーな仲ならともかく、そんな仲は、長年連れ添った夫婦や親子でさえも、場面によっては難しいことを考えれば難しいのですから、まして、他人様との関係においては、自分が望むことを他人に求めるならば、自分自身、相応の相手に合わせる対応が必要であると思うわけです。英語しか話せない方に、いくら日本語で話しかけて、通じるわけがないのと同じです。英語が話せないならば、ジェスチャーで、あるいは表情で、自分の伝えたいことが伝わる努力をすべきですし、それができないならば、伝えることを諦めるのが正しい選択でしょう。しかし、そのとき、相手が日本語を話せないから悪い、と思ってはいけません。相手は、伝えてもらいたくない、と思っているかもしれませんから。
 上述のマルチ商法の話でも、その先輩が、友人について、マルチ商法の素晴らしさが理解できないコイツが馬鹿だ、と思っては、救いようがないと思いませんか。あるいは、カルト宗教の勧誘をする方が、自分の信じる神を信じない貴方は不幸になる、と捨て台詞を吐くことが、どれだけ空しいことか、ということを考えてみてください。

 クリスマス直前、従姉の娘(おそらく5歳)がハワイから来日し、言葉について、いろいろ考えている今日この頃。彼女はネイティヴなアメリカ人ですから、日本語が全く話せなかったんです。彼女と接する中で、人類が手にしたこの素晴らしいツールを、生かすも殺すもその人次第だなぁ、と実感しています。子供は、ある面において傲慢ですが、一方で、ある面において謙虚です。自分が話す言葉を周囲の人間が理解しないことを全身で感じ、物凄い速さで日本語を吸収しています。そして、自分の意思を伝えるために、片言ながら日本語を話します。大人は、逆に、ある面において謙虚ですが、ある面において傲慢です。現在の自分自身が、彼女と同じ環境に身を置かれれば、果たしてあそこまでの言語適応能力を見せられるか、という疑問がフツフツと湧いてきています。

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28歳最後の日

 また、今年もこの日がやってきました。1年の内で、2番目に感傷的になる日。
 10年前、大学に通っていた頃、まさか自分が10年後も同じ大学に通っているとは思いませんでした。と言っても、別に留年し続けているわけではありません。一度、社会人としての生活を始め、その後、諸般の事情から、大学院へと復帰したわけです。

 明日の午前零時をもって、29歳の新しい1年が始まります。それはそれで、また、頑張ろう、という気にさせてくれる日ではあるんですが、一方で、この1年、自分は何をしてきたか、ということを振り返って、何となく暗い気持ちになるのも事実。刻一刻と迫る試験の日を前に、やらなきゃいけないことは山のようにあるはずなのですが、どうもそういう場面での頑張る力に欠ける自分がいるわけです。
 基本的には、一定のペースを守って物事を進める方が向いているんでしょうね。繁忙の差が大きいのは苦手です。かといって、物凄いペースを持続できるだけの精神力を持ち合わせてもおらず、結局、ダラダラと自分のペースで頑張るしかない、ということでしょう。

 明日から始まる29歳という1年が、自分自身のその後の人生を大きく左右するであろうことは、会社を辞めたときから十二分に解っていたはず。明日はたまたま授業のある日でもありますし、しっかりお勉強をしよう、と思います。
 これまでの28年間で、出会い、そして、別れてきた全ての人に感謝しつつ、新しい1年を目指そう、と思うのでした。

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公務員とマスコミ

 最近、マスコミ報道で公務員バッシングが激しい。自分に言わせれば、マスコミ関係で働いている人間が、公務員を非難する資格などあろうか、と思う。

 戦後のこの国の発展の根幹を支えてきたのは、官僚機構であり、公務員である。多種多様な産業が、今日、この国の中にある。それらが勝手に発展したのであって、国、公共団体、政治は関係ない、という理解は誤っている。規制し、あるいは奨励し、多様な価値の調整を続けた結果として、今日があるということを、忘れてはならないと思う。たくさんの問題があることは、真摯に受け止めねばならないし、その改善も必要であろう。しかし、果たして官僚機構や公務員は、マスコミが騒ぐほど害悪だけを垂れ流す組織なのだろうか。

 先般、夕張市が財政破綻した、という報道に際して、「夕張市の市議は、給料なんてなしでよい」的な発言をしたマスコミ関係者がいた。本気でそんなことを考えているのだろうか。夕張市の市議にだって、家族もいれば、生活もある。確かに議員は、私益を捨て、公益のために全てを捧げるという理想論は理解はできる。しかし、生きていけないような給料しか得られなければ、その仕事のどこにモチベーションを見出すのか。ワーキングプアの問題と、本質的に同じ議論であるはずなのに、一方で給料はなしでよいと言い、他方で派遣社員の給料の安さが問題だと言う。そこに、「仕事」と「給料」についての明確な考え方があるとは、到底思われない。あるいは、議員は、一部の財産的に裕福な人間だけがやればいい、とでも言うのだろうか。しかし、それは、1人1人の国民が政治を考えるべき、という従前の主張と矛盾してしまう。こういう無責任な言動を、公共の電波を使って日本中に垂れ流すことが、とても危険なことに思えてならない。
 確かに、夕張市の市政に様々な問題があったことは事実であろう。それ故に財政破綻という結果に至ってしまった。しかし、全く夕張市の市政が何ももたらさなかったわけではあるまい。エネルギー革命の荒波の中、炭鉱の町として栄えた地方都市を、いかに盛り上げていくか、ということを真剣に考えて仕事をしてきた職員・議員の方も大勢おられたと思う。それを、片面的で、面白おかしくニュースを垂れ流し、夕張市の職員が悪くて、住民は悪くないという報道を繰り返しているマスコミ。
 自分は、「夕張市の市議に給料は不要」的な一言の中に、マスコミの体質を見てしまった。時代の潮流をマスコミが作るという事実は、これを認めねばなるまい。であるならば、彼らに報道についての責任をしっかりと問えるような枠組みを作るべきではないか、と思う。が、現時点では、具体的な方法が思い浮かばない。
 政治家と異なり、彼らは、選挙で国民の信を問うということがない。テレビであれば、そこにあるのは、視聴率という数字。けれども、立ち止まって考えてみると、視聴率とは、本来的には広告の価値を測る指標であって、マスコミ報道に対する国民の支持を測る指標ではないはずである。そして、その数字を競い合っているテレビ局各社。このことを、もう一度考えてみる必要があるのではないか。
 「マスコミは主義・主張を持て」、というのは言いすぎかもしれない。が、まずは正確な事実を国民に伝える必要があろう。その部分すら満足にできていないのに、信念もなく、批判を繰り返すのは、正直、愚民政治を誘導しているとしか思えない。国民が接することのできる情報は、IT技術の発展で飛躍的に増加したとは言え、無数に転がっている情報の中から、どれが正しくて、どれが正しくないのかを、各人が全て判断することは、およそ不可能である。それ故に、一つの権威として、例えばテレビで報道されていた、ということが位置づけられているのである。とある情報番組が、納豆で社会問題を引き起こしたが、これなどは、いい例だと思われる。そのような中で、無責任な発言を繰り返す、片面的な情報しか提供しない、というマスコミの体質は、独善的と批判される官僚機構と五十歩百歩ではないか、と思えてならない。

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おいしいもの♪

 日曜日、阪神競馬場の帰りに京都にある「三成」という韓料理のお店に行ってきました(HPはこちらですhttp://www.kyoto-mitsunari.com/)。

 鉄板焼とモツ鍋の間のような「三成鍋」を注文。以前にテレビで見て、一度行ってみたいと思っていたお店。ネットで料金を確認したところ、少し学生が飲み食いするには高めかな?と思ったのですが、今回は社会人の彼女が一緒、ということで、挑戦することになったのです。

070624_192201_1 写真が「三成鍋」です。HPで見たのと同じですね♪。注文は2人前からでお値段3,600円となっていたので、2人前7,200円かぁ、と思っていたのですが、どうやら2人前3,600円のようです。
 見た目は赤くて辛そうなのですが、これがホルモンの甘さでそうでもありません。量的には、2人でちょっとサイドメニューをオーダーすれば満腹になるくらいですので、4人とかで行けば、もう少しいろんなメニューをオーダーできるはず。この鍋の材料は、カルビ等のお肉、ぞうすい用のご飯等、ホルモン、中華そば、うどん等々が追加できます。

 2人で飲んで、食べて、1万円まではまだまだ、という感じでした(生ビール×3杯+マッコリ酒×2杯を含んでいます。)。というわけで、満足な日曜日を過ごしたのでした♪。

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コミュニケーションについて考える

 最近は、携帯等のIT技術に支えられ、コミュニケーションを制約していた時間、場所の問題は解消されつつあります。昔なら、遠距離恋愛などは、電話か手紙のやりとりが普通でしたが、最近では、携帯のメール、チャット等、いろんな道具もあり、そして、ウィル●ムの登場等で、費用も安くなってきました。

 コミュニケーションの方法としては、電話で話す、会って話す等の会話、手紙、メール、チャット等の文章のやりとり、という2つが主流でしょう。しかし、この2つには、本質的な違いあると思いませんか?
 会話の場合、実際に相手の表情を見たり、あるいは、声色、雰囲気等々を含めた上で、相手が発した言葉の意味を考え、理解し、それに対する応答をする、というのが一般的な会話の構造だと思います。これに対して、文章のやりとりでは、相手の表情を見ることはできませんし、声色とか、雰囲気とかいった、実際に相手と向き合う形のコミュニケーションである会話にある臨場感とでも言うべきものがありません。その代わりに、文章という形あるものとして残るので、後からそれを読み返すことができ、詳細な説明等では、むしろ文章の方が便利です。
 もちろん、どちらも「言葉」を使うのですから、言葉遣いや言葉の選び方なんかは共通して相手の言わんとすることを推し量る材料になります。しかし、会話の場合は通じることも、文章のやりとりでは通じないことがままあるのも事実。逆に、文章のやりとりでは通じることが、会話では通じないことがままあるのも事実。
 何を当たり前なことを、と思われるかもしれませんが、我々は、そうしたコミュニケーションの方法の当たり前の特性を感覚的に理解し、使い分けているのではないでしょうか。例えば、電子機器の営業マンが、自社の新製品を売り込みに顧客に訪れるとき、仕様書を持たずにいくことなんて、よほどのお間抜けな営業マンでない限りないと思います。逆に、顧客を接待するときに、特に必要性もないのに筆談したり、携帯のメールでやりとりをする、というのもナンセンスだと思います。

 ブログの記事の作成は、文章のやりとりに類似します。だから、自分は、こうしてブログの記事を書くとき、主語、述語がちゃんと書かれているか、書かなくて充分に読め取れるか、ということを考えながらキーボードを叩きます。会話では、主語、あるいは述語を省略しても、何となく雰囲気でわかったりしますし、すぐに相手に尋ねることもできるのですが、文章だと、そういうわけにいかないからです。誤字脱字にも気をつけています。思わぬ誤字脱字で文章の意味それ自体が変わってしまうことがあるからです。しかし、いずれも注意力に限界があり、時間的制約もあることから、常に完璧というわけにはいきませんが。

 ところで、昨今、コミュニケーションのテクニックについて、さまざまな情報が世間に氾濫しています。で、こういうコミュニケーションの仕方をしたいのにできない、と嘆いている輩がいたりします。しかし、コミュニケーションのテクニックを使うことが目的なら、そのコミュニケーションって何でしょうか?そういう輩に限って、このコミュニケーションのテクニックを使うことによってお互いを高め合う、などというキレイごとを言ったりするのですが、そういう結果のためにコミュニケーションがあるんでしょうか?コミュニケーションは、相手を理解し、あるいは自分を理解してもらう、という点に主眼があるのであって、一定の方法論に則ったコミュニケーションをすること自体が目的ではないはずですし、コミュニケーションの結果、自分にとってプラスだなぁと思えば続けるし、マイナスだなぁと思えば続けないだけの話で、相手にとってプラスかマイナスかなんていうのは、余計なお世話だと思いませんか?自分にとってプラスか否かは自分で決めます、と言いたいわけです。
 例えば、ある人が、手紙の文字を英語にすると英語力が上がる、と考えて、友人に対して英語の手紙を出しました。その友人が日本語で返事を書いてきたので、ある人は「英語で返事を書いてくれないもんなぁ」、と嘆きました。(例が英語なのは、自分が英語、苦手だからですね、きっと(笑)。)
 英語で返事を書かなかったのは友人の方ですが、何故、友人は英語で返事を書かなければならないのでしょう。むしろ、我が国において、非常用言語である英語で友人に対して手紙を書いた者こそが、英語で返事が書かれなかったことの原因を生み出しているのです。返事を英語で書いて欲しいのであれば、そういうコンセンサスを得て行うべきで、いきなり英語の手紙を送りつけておいて、返事が日本語だったから文句を言うというのは筋違いも甚だしいと言わざるを得ません。
 この場合、「英語力を上げる」という目的は大層立派なものかもしれませんが、相手はその必要性を感じていないかもしれないし、あるいは、既に英語力が充分にあるかもしれません。そして、ある人との関係の希薄さから、そういうことに付き合いたくないと思っているかもしれませんし、忙しくて相手をしている暇がないと思っているかもしれません。そういう諸般の相手方の事情を踏まえ、コンセンサスを得られないならば、英語で手紙を送るということをすることは、有害ですらあります。英語は苦手だけれど、英語力のアップに必要性を感じておらず、ある人との関係から、そういうことにお付き合いする必要がない、と考えている人にとってみれば、突然、英語の手紙が送られてくると、読まずに捨てるわけにもいかず、読んでしまう、そして、そのために時間を浪費する、ということが起こってしまうのです。読まなければいい、とこういうことをする輩は言いそうなんですが、読まなければいいのではく、読ませなければいいのです。
 こういうことを理解しない人とのコミュニケーションは、精神が疲弊しますし、意味不明な言葉を投げかけられたりし、そして、その言葉の意味を調べたり、考えたりすると、時間がどんどん過ぎてしまうのです。そして、最大の問題は、そういう輩は、自分の正しいと思っていることが、常に相手にとっても正しいと思い込んでいることなんです。自分にとって正しいことが、相手にとっても正しいわけではない、ということに気付いてもらいたい、と思います。そして、そういう哀れな輩が、自分が正しいと思っていることを共有できる相手に出会えることを、祈っています。

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当たりました!!

 今日、自分の家の前の自販機でコーラを買ったら、ピロローンって音がして、何と、ジュースが当たりました。人生において初体験です。何かいいことがあるかもしれない、と思うのでした。
 で、当たった分でメロンソーダを買ってから思ったことが1つ。アイスコーヒーにすればよかった…。

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生き方

 今まで、テレビを見ていました。テレビ朝日の「テレサ・テン物語~私の家は山の向こう~愛人、つぐない、時の流れ…日本中が涙した伝説の歌姫!家族愛・婚約破棄・謎の死…今初めて明かされる真実の生涯!!感動の実話」です。

 何というか、激しい生き方だなぁ、と思います。好きな歌手は、皆さん、激しい生き方をしておられます。尾崎豊しかり、美空ひばりしかり、テレサ・テンしかり。アーティストは、普通には生きられないからアーティストなんでしょうね、などと、勝手に理解しています。
 今、大学院で法律を学んでいますが、公法系の科目は苦手です。まさに平和ボケというか、権力というのが今ひとつピンと来ない。だから、ともすれば権力に対して緩やかな解釈を採りがちです。でも、翻って人類の歴史を眺めてみれば、少なくとも欧米では、一般人の歴史は権力との戦いだったんですね。日本の歴史を見ると、そういうのがないからお上に逆らわないという国民性が生み出されているのかなぁ、と思ったりもします。

 そんなことはさておき、とりあえず、テレサ・テンの生き方に感動したわけですが、このドラマの原作者は有田芳生氏なんですね。オウム真理教以外にもいろんなことしてるんですね。テレビでくだらないコメントを吐いてるよりも、こういう本をいっぱい書かれた方が、世のため、人のためにはなるのになぁ、と思ったりもします(個人的に有田芳生氏のワイドショーでのコメント等が嫌いなんです。)。

 人は、何のために生きているかなんて、このご時勢に真面目な顔をして言えば、若者にはバカにされるのが目に見えてしまうのですが、本当は、皆、一生懸命考えているんだ、と信じたいです。

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競馬関係記事についての引越し

 昨年より、ずっと競馬関係とプライベートなことを混ぜこぜにして書いてきましたが、この度、競馬関係だけを以下のブログに移すことにいたしました。

馬券技術向上プロジェクト

 理由はいくつかありますが、まず、最近、何故か馬券が全く当たらないので、ゲン直しというのが一番大きな理由でしょうか(笑)。あと、やはりプライベートなことと競馬のことを混ぜこぜに書いていると、競馬のことの比重が大きいので、プライベートなことについてはのんびり書きつつ、競馬関係の部分だけを別にする必要性をずっと感じていました。ダービーも終わり、競馬の世界でも新たな1年が始まる今週から、引っ越すというのも、ゲン直しという意味では悪くないと思っています。
 とりあえず、アメブロの使い方がイマイチよくわかっていないので、しばらくはいろんなことを調べながら書いていきたいと思います。少し記事の内容もリニューアルしたいと思ってますので、乞うご期待、です(?)。
 これまでご愛顧くださった競馬好きな方におかれましては、上述のブログを引き続きご覧いただければ幸甚です。また、私ごときのつまらないプライベートの記事を読んでくださっている方におかれましては、引き続き当ブログをご愛顧いただきたく、今後とも宜しくお願い申し上げますm(--)m。

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雑感

 最近、春の終わりを感じます。ここ3年は毎年恒例となっている花粉症らしき症状(きちんと病院で調べてもらったわけではないので、「らしき」としか言えません。)。もうすぐ梅雨だなぁ、と思います。
 ようやく、春が終わってくれる。そう思うと、春が嫌いな自分としては、少しホッとしてしまいます。つくづく、想い出に囲まれて、人は生きているんだなぁ、と思います。結局のところ、そうやって積み重ねてきた時間の結晶に囲まれて、また、新たな結晶を生み出していく。まるで、寄せては返す波のように、繰り返していくそういう日々の営みが、自分の現在の土台なんですね。
 時間は、あっという間に過ぎ去っていきます。過ぎ去りし時間は、まさに覆水盆に返らずでして、2度と戻ることはありません。自分でも、頭の中では充分にわかっているんですが、そういうことって、きっと理屈とか、そういう頭の中で理解するものじゃなく、感覚で理解するものだろうと思います。だからこそ、感覚を大切にしなければいかんなぁ、と思うのです。

 何かをするとき、そりゃ、人間ですから、どうしても何もかもに全力投球というわけにはいかないんですが、ここぞ、と思うときには、きちんと自分なりの美学、あるいは哲学を持ってしたいなぁ、と思います。自分なりの美学、哲学に裏打ちされない言動は、どこか薄っぺらく感じてしまいます。これまた感覚ですね。

 こうやって、いろいろ考えていくと、自分は感覚派なんだなぁ、と思います。論理を詰めて、最終的にそれで答えの出ることは、楽しいとは思えないんですね、たぶん。どうしても自分なりの筋道を作って、ジャンプする部分も作って、論理を詰めた先に、不確かな部分があることが、すごく心地いいんだと思います。

 さて、今夜もこんな時間になってしまいました。ボチボチ寝ようと思います。
 こうして、心に浮かぶとりとめのない話を文字にすることで、癒されていく自分は、きっと中学生の頃から、変わっていません。

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懐かしい音楽

 音楽に乗って、想い出の景色がフラッシュバックする。重ねた時間の中に埋もれた記憶。それが、音楽によって蘇っていく。
 音楽に限らず、匂い、モノ、色、言葉、文字、場所等々が契機となって、溢れ出す過ぎ去りし時間。このまま溺れていられれば、それは、とても、とても、気持ちがよくて、楽チンなんだが、そうも言ってはいられない。現実には、ものすごいスピードで時間が流れていて、気を抜くと置いていかれてしまう。
 たまに、感傷的な気分になっているくらいが、きっと、ちょうどいいんだろうと思う。

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白い衝撃!!

 帰宅して、夕食を食べ(今夜は五目チャーハンと餃子を作りました。餃子は買ってきたものですが。)、洗面所でうがいをしていたときのこと。頭に白い筋を1つ発見!!何と白髪でした。
 自由気ままな学生生活、何も苦労など、と思いますが、白髪が1本。衝撃です!!白い衝撃です!!
 でも、少し嬉しかったりします。何故って、白髪の方は禿げないイメージだからです。家系的に、父方の遺伝子が濃ければ禿げるし、母方の遺伝子が濃ければ禿げないという微妙な立場。ただ、禿げる遺伝子は優性遺伝という噂も…。そういえば、高校生の頃に比べると、生え際が後退したような気も…。ですから、白髪が生えてきたというのは、禿げないということだと思いたいわけです。
 そういえば、対人的に丸くなったなぁ、と最近、よく思うのですが、その分、溜め込んでいるものがきっとあるんだと思います。自分では感じないんですが、きっと何かあるんでしょうね。試験も、刻一刻と近づいてきてますし。
 まぁ、まだ28歳なので、しばらくは真っ白になるのは避けたいし、白髪を抜いていると、禿げてしまいそうだから、気をつけなきゃなぁ、などと思います。

 ロマンスグレーいう言葉がありますが、まだ早いなぁ、と思います。確かに老けていますが、見た目と実年齢のギャップがだんだんと埋まってきている昨今。これは、前の彼女のおかげだなぁ、と思います。基本的に格好に無頓着な私。それでも、やはり隣にいる方とのバランスを考えたいなどと、人並みなことを考えられるようになったんですから。
 そう言えば、会社を辞めて、関西に戻り、学部のゼミの同級生と飲みにいったとき、格好が若返った、と言われました。学部生の頃は、全身、真っ黒ということが多かったのですが、白っぽいシャツを着たりするようになったのがよかったのかもしれませんね。

 再来週に備えて、何か1枚、シャツでも買おうかなぁ。更にちょこっと若返れそうなものを探して♪。

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春の空の下で考える。

 先日、無地のノートを買いました。小さな頃はそうでもなかったのですが、何時の頃からか、真っ白な紙に何かを書くことが、とても苦手だなぁ、と感じるようになりました。そういう自分と戦おうと思って無地のノートを買ったんですが、何も書かれていないノートに何かを書き込むことは、ひどく不快で、未だに買った時と同じ状態のまま鞄にしまわれています。

 10代の頃は、どちらかと言えば、自分の創造性を過大評価していた気がします。でも、大学を出て、社会人になって、という時間を経て、今更に気付くのですが、自分はとても保守的だったんです。予定調和の世界がたまらなく心地良いんですね。
 そういえば、小さな頃から勧善懲悪の時代劇が大好きでした。あの頃から、実はそうだったんですね。
 結末のわからないストーリーへの憧憬と不快感。それに対して、結末のわかりきっているストーリーの安心感。同じ小説を何度も何度も読み返すのに、新しい小説に手を伸ばすのには、大きなエネルギーを要するという事実。結局、変わりたくないという性格が、そういうところにも出ていたんですね。
 最近の携帯電話は多機能で、私の携帯電話も、ミュージックプレイヤーの機能が付いています。で、CDからパソコンへ、パソコンから携帯電話へ、と音楽を取り込み、通学時間などに聞いているんですが、これまた今となっては懐メロと呼ばれそうな音楽ばかり。どこか昭和の香りが漂っている音楽ばかりなんです。でも、流行の音楽を聞いているより、こういう慣れ親しんだ音楽の方が落ち着くんですね。

 最近は、変わりたい、とよく思います。今日は、帰りにTSUTAYAにでも行って、CDでも借りてみようかなぁ、と思うのでした。

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食べすぎました。

 世間様はゴールデンウィークとやらで、京都は観光客の方々に埋め尽くされ、バスに2回も乗れませんでした。確かに祝日やけど、こういう日は平日ダイヤで運行するか、臨時便を出してもらいたい、とつとに思います。運輸局に届け出てない路線を走らせるくらいならねー。

 というわけで、実家に帰って参りました。
 本来は、祖父母の米寿のお祝いの予定だったのですが、祖母の実姉が倒れたということで、延期になりました。まぁ、90歳を過ぎておられるので、何時そういうことがあっても不思議ではないのですが、幸いにも命に別状はないということ。ただ、脳の血管が切れたということで、記憶がぐちゃぐちゃになっているらしいです。
 昨日、祖父母と共に、父、母がお見舞いに行ったそうですが、祖母が呼びかけたときだけは、誰が呼びかけているのかわかるらしく、反応するそうです。やはり、血のつながりというのはスゴイものですね。早く良くなるよう、心からお祈りします☆。
 で、米寿のお祝いがなくなったことから、従姉の子供2人(小学校2年生と4年生)と遊ぼうと思ったら、今日、実家に戻って訊くと、ゴールデンウィークは来ないらしい…。
 って、何しに帰ってきたんだろう。

 そう思っていたら、夕食タイムに。
 今夜の夕食は、とてつもない量でした。トンカツとその他野菜のフライ、小松菜を煮たもの、ニラ卵炒め、豚の冷しゃぶ、キムチ、シュウマイ、ご飯(他にも何かあったかも知れませんが、思い出せません。)。とりあえず、全部食べ切りましたが、こんな食生活をしているから、父はメタボリック症候群から抜け出せないんです、きっと。
 それにしても、祖父母は、今年で88歳になられるんですが、「何が食べたい?」と訊くと、「トンカツ」とか「すき焼き」とか…。まだ30歳前の若い私ですが、もう少しあっさりしたものが食べたいです…。アジの開きと納豆とご飯くらいでいいです…。

 先日の学校での定期健康診断。血圧が高いと言われました。
 会社を辞めてから、体調はすこぶる好調だったはずなんですが、年には勝てないようで、節酒、節煙を心がけようと思うのでした。ただ、血圧の測定が1番初めにあって、自転車を漕いでいって、すぐに測定したからなのかもしれない、と自分自身には言い聞かせています。近いうちに、もう1度血圧だけ測定しにいってみます。

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続・思うこと

 「言葉」は、ものすごい暴力なんだと思います。
 例えば、月並みな話、「男」である、ということから、一定の性質を持つことが求められるわけです。つまり、「男」という言葉は、それを発する人の意思とは拘らずに、そうあるべきだ、という暴力を行使しているのです。
 では、「言葉」なしに生活ができるか、というと、それはどう考えても不可能なんです。
 無人島で、独りで木の実などを採り、狩りをして暮らしていくならば、「言葉」なんて不要なのかもしれません。でも、実際の世界では、そんなわけにはいきません。自分以外の他人と関わることなく生きていくことなど、不可能なのです。そして、関わらざるを得ないとすれば、意思疎通、共通認識のようなものが必要になります。その間隙を埋めているのが「言葉」なのだと思います。自分の思っていることを他者へと伝達するためには、共通した定義を持つ「言葉」が必要なわけです。
 だとすれば、我々は、「言葉」というものを、本質的に暴力的側面を持たざるを得ないものとして、許容して使わなければいけないということです。そして、その許容の限界点はどこか、というのが平等の議論なのだと思うわけです。
 この議論は、宗教とよく似ていると思うのです。
 私は、敬虔ではありませんが、一応、自称クリスチャンです。キリスト教が説く神の存在を、一応、信じているわけです。
 でも、よーく考えてみてください。神様なんて、見たことないでしょ。仮に見たことがある人がいるとしても、一緒に見た人がいますか?いないですよね。結局のところ、自分が信じるか否かなんですよ。
 これと平等に関する議論と、どこが似ているのか。それは、何を平等だとするか、という点なんです。例えば、今の日本は完全に平等だ思う人がいるとします。彼にとっては、これ以上に福祉に力を入れることは、即ち不平等なわけです。今が最適状態なわけですから。それを崩すことは、不平等になるわけです。平等でなくなるのですから。この方に、今の日本は平等ではない、と説こうとします。そのために、まさに「言葉」を尽くして頑張ったとします。でも、共通認識に到達することは、著しく困難なわけです。何故なら、神の存在と今の日本が完全に平等だという命題は、どちらも最終的に「自分がそう思うか否か」という点に是非の判断は尽きてしまうのです。
 では、相対的にではなく、絶対的に平等を捉えるとすれば、どうでしょうか。それは、自分と他人との違いが一切ない世界。これもまた、宗教類似の世界です。突き詰めていけば、例えば、背が高い人が、高いところに手が届くことすら不平等になるわけです。
 結局、どこが平等か、ということは、どこで妥協できるか、という問題に行き着くのだと思うわけです。そして、妥協点を集団において求める術として、我々は民主主義という金科玉条を擁しているわけです。ならば、そこで導出された結論に不備などあろうはずがありません。少数者の利益についての保護などというのは、パターナリズムの産物以上に価値を与える必要性はないのです。それをしようとすれば、立ち入ってはいけないゾーンへ立ち入る気がするのです。

 …また眠くなってきました。まとめは今度、ということで。
 以上は酔っ払いの戯言なんです。あんまりまじめに読まないでくださいね。

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思うこと

 最近、いろいろ考えることがあります。
 自分が正しいと思うこと、間違っていると思うことって、最終的に行き着くところは主観じゃないか。客観的に正しいことって、実はこの世の中にはないんじゃないか、と思うわけです。
 どんなに正しいと思われていることでも、それがどうして正しいのか、ということを突き詰めて考えていくと、自分自身の中で論証できないんです。最後は、こう決めたんだから、とか、当たり前でしょ、とかいうところから逃れられないんです。どこまで突き詰めても、主観的に正しいと思えるかどうか、ということなんじゃないかなぁ、と思う今日この頃です。月並みな例を挙げれば、1+1=2という数式が客観的に正しいという論証をしようとすると、まず、「1」というものと「2」というものの定義に行き着くわけです。で、その定義がどうしてそうなのか、ということを考えてみると、そう決めたからということ以外に何もないんです。
 人間は、生きていく上でいろんなことを自分なりに定義して生きているんだなぁ、という実感が湧いてきます。何か、目の前に物事があって、それを自分自身が見たときには、常に自分自身が定義した前提の上に、正しいか、間違っているかを判断しているんです。でも、この前提を放棄したときに、いったい何が残るだろうか、ということを考えると、何もないという答えしか出てこないのです。
 果たして、ここまで書いてきたことが意味のあることなのか、意味のないことなのか、ということは、自分でもわかりません。ただ、仮に最後に行き着くところが主観だとするならば、自分自身の主観を中心的な価値に据えても、物事の理解について問題があるとは思えません、。次元が違う、ということをおっしゃる方もいますが、結局、同じ自分自身の主観という砂上の上に成立しているという本質に鑑みるならば、同じ穴のむじななわけですね。

 今日、学校の憲法の講義で、平等ということについて考えてみました(講義の内容がさっぱりわからないので。)。
 はっきり言って、私個人としては、平等とかいう言葉を振りかざして、さも自分が正しいと思うことを臆面もなく語る輩は嫌いです。平等なんて、所詮、比較概念以外の何ものでもないとは思いませんか。自分が存在する、自分以外が存在する、ということを受け入れるならば、やはり差異の発生は不可避です。自分は自分であって、決して他人ではないのですから。全く同じであるはずがない。
 この世界には50億人を超す人間がいるわけです。その1人、1人が異なる人間なんです。各々が違うのです。その違いを、個別に尊重しよう、というのは、大変素晴らしくて、涙が出てくる話なのですが、果たしてそんなことが人間に可能でしょうか。一切のグルーピング、カテゴライズを廃し、個別の人として尊重する、ということが可能でしょうか。自分と同じように尊重する、ということが可能でしょうか。
 人間は機械ではありません。だから、同じものを食べても、日によって美味しかったり、美味しくなかったりします。彼女が隣に寝ていても、愛おしいと思ったり、疎ましく思ったりします。そして、そういう個々人の感じるところを「嬉しい」とか、「悲しい」とか、「楽しい」とかいうことを言葉にしてしまうと、途端に陳腐になってしまうのですが、それでも、人は言葉によって自分以外の人と分かり合おうとするのです。

 ここまできて、非常に眠くなってしまいました…。この続きは、また後日。

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バトル勃発~第2弾

 今日は月曜日。我が家の燃えるゴミの収集日でした。
 最近は、1週間の内、4日程度は夕食を自炊しているので、ゴミが出る量も増えました。で、朝からゴミ袋に燃えるゴミを詰めて、いざ、学校へ、と思い、ゴミ袋を片手に玄関を出ました。
 空は、昨日の雨の余韻が少し残っており、どんよりと曇っていました。
 我が家は2階建てのハイツの2階にあるのですが、階段を目指して廊下を歩いていくと、異様な光景が目に飛び込んできました。カァ、カァ、という不気味な音ともに。
Photo_1  何だ、これは!!
 ビックリして、とりあえず携帯のカメラでパシャリと撮りました。何と、カラスが30羽以上、ゴミを出すところに屯していました。
 七つの子という童謡がありますが、あんな可愛いものではありません。30羽以上のカラスが集合していると、明らかに異様な光景です。さらに、カァ、カァと思い思いに鳴いているのです。これがまた不気味です。一瞬、目を疑ったのは、きっと私だけではないはずです。まるで江戸時代の刑場のようです(といっても、見たことはないので、あくまでイメージですが。)。
 先日の鳩の一件といい、我が家は鳥に呪われているのかもしれないなぁ、などと思ってしまいます。それにしても、ゴミ置き場のカラス対策などは、自分1人でできるものでもなく、どうしたものか思案中です。先週の燃えるゴミの収集日は何にもなかったのに…。とりあえず、木曜日にも燃えるゴミの収集があるので、そのときに同様の現象が発生したら、大家さんにでも相談してみることにします。
 カラスは、時に人に対して攻撃的になることもあるそうなので、気をつけなければなぁ、と思います。我々大人はカラスが攻撃してきても、1羽や2羽くらいなら何とかできますが、カラスは結構大きいので、幼稚園児とかだと危ないなぁ、と思ったりします。でも、どうして突然、カラスが大量に飛来したのでしょうか。謎は深まるばかりです。

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酔っ払いの戯言

 小学校の頃、何で学校で国語なんて教えるのかなぁ、と思ったものだ。そんなことは、日本語を母国語とする人間は、理屈じゃなくて、感覚として理解しているはずだと思っていた。でも、最近、ネットでいろんな方が書く文章を見ていると、実はそうではないことに気づく。

 どんな文章を書こうが、それは個人の自由だ、とは思う。
 しかしながら、誰も見ないことを前提にネット上にいろんな言葉を書いている方は、個人的には危ない人だなぁとも思う。何故、誰でも見られる環境に、誰にも見せるつもりのないものを書くのか、ということは、およそ理解不能である。別にそれが悪いとは思わないが、さりとて理由がわからないと、やはり距離を置きたくなるのは事実。
 以上のような場合を措けば、ネット上に何らかの文章を載せる方は、積極的にではないにしても、何らかの形で誰かが読む、ということを意識しているのが一般的ではないだろうか。にもかかわらず、たった10文字程度の文章なのに、文法はハチャメチャ、説明がなければ論理矛盾していることが明らか、句読点の位置がおかしい等々が頻繁に目につく。もちろん、言葉は進化していくものだし、閉じた世界で通用すればそれでいい場合もある。それらの場面では、略語、省略、倒置等のレトリック的なものを使うこともあろう。しかし、そういう、ある種芸術的なものは、最低限の不文律の上に成り立っているということを忘れてはならないと思う。その不文律について何の考えもなく、ただ、
「好きなことを書いています、何か問題でも?」
と言い切ってしまうことが何となく許されているところに、現代社会の病巣の本質のようなものがあるのではないかと思えてならない。例えば、「~だが。」として、その後ろは読み手に補わせるような文章を第1文に持ってきて、結局、最後まで読んでも何が入るか合理的、論理的にはわからないようなケース、あるいは、「事業者は消費者なので」のようにたった10文字で論理矛盾しているのに、その後もその意味を説明すらしないようなケースがある。
 ネットだから許される、とか、貴方にそんなこと言う権利があるんですか、とか言う輩に限って、きちんと何かを人に伝えることができていないし、何かを伝える気がないのに伝わらないと嘆いている、と思うのは、私だけだろうか。
 楽しければいいとか、遊びなんだから、とかいう生き方が、決して悪いとは思わないし、それは個人の自由ではあるけれども、願わくは、全ての人々が、くだらないことにも自分なりの哲学を、あるいは美学を持たんことを。

 斯く言う私も、上で述べたことをきちんと実践しているか、と言えば、甚だ疑わしい。ただ、そういう意識を持つことにこそ意義があるのだと、私は信じているし、そういう意識を持っているという自負はある。
 真相は、皆々様がそういう意識を持たれているのに、ただ、感じることができないほどに私が鈍いだけなのか、それとも、そういう意識を持つこと自体が忌避される時代なのか。

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萎む夢と現実世界の間にある幸せ

 人の気持ちというものは、すごく不思議で、いい加減なものです。
 あの頃は、あんなに嫌だったことが、今はすごく楽しかったりします。毎晩のように話すことが、とても、とても嫌だったあの頃。それなのに、今は眠る前に声を聞きたくて電話をかけているなんて、冷静に考えてみると驚きです。
 自分自身は、何も変わっていないつもりでも、実は少しずつ変わっていってるんですね、きっと。私がデジカメを持っていることに、すごく驚かれたりすると、そういうのを実感します。それだけ、時間が経ったということなんでしょう。もうすぐ三十路ですからね、私も。

 小さな頃はいろんなことを夢見ていたのに、現実世界でそれを維持し、そして実現していくのは、ほんの一握りの人間だけ。私は、そのことに気づいたのが、少し早すぎたのかもしれません。自分の中学校の卒業文集を読み返すと、つくづくそう思います。
 中学校に入った頃から、年をとる毎に、夢が小さく萎んでいくことを、目の前にある現実として受け入れる傍らで、それがとてもいけないことのような気がしていました。人は、現実と折り合いをつけて、誤魔化しながら生きているんだ、という、今思えば当然のことが、当時の自分には、ひどく矮小なものに思えたんだと思います。
 別に、何かとても大きなことをしなくてもいい。大成功を収める必要など、全くない。ただ、自分が幸せだなぁ、と思えればそれでいい。そう思い始めたときから、人間は「欲」と戦い始めるのです。幸せに完璧なものなんて、絶対にない。ただ、そこには少しだけ足りない気がする幸せがあるのみ。そして、どこでそれに満足したと自分に言い聞かせられるか、ということが、幸せに生きていくこつなんだと思います。

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違和感の使い方~春の日に思うこと~

 かなり遅ればせながら、吉本ばなな氏の『キッチン』を読みました。
 何というか、彼女の書く文章は、ものすごくリズムがいいですね。ところどころ、「ん??」と思う違和感を、上手に使っている気がします。単調ではなく、変化に富んだ文章。しかも、登場人物の心理を直接的に書いている部分が少ないのに好感が持てました。
 もちろん、まっすぐ喜怒哀楽を表現することが悪いわけではありません。心理・感情を表す言葉を適切に選ぶことは、すごく難しいことです。ただ、個人的には、1つの感情だけで人間の全てが埋め尽くされることなんて、きっとないだろうと思います。だから、その微妙な心理を表現するときに、そういうファジーな部分を上手に使える方の文章は、すごく心地いいのかもしれません。

 もうすぐ、司法試験まで1年を切ります。こういう追い込まれた時期になると、無性に文章を書きたくなるのは、悪い癖だなぁ、と思います。
 そういえば、初めてとある小さな街の文学賞に応募したときも、大学受験の直前でした。まぁ、私の高校時代を知る方は、きっと大学入試でなんか、追い込まれてはなかったろう、と思われるでしょうが(遊びまくってましたからね。それもパチンコ、競馬とよからぬ遊び…。)。
 一生懸命頑張ることが、ものすごく苦手な私。よくよく考えてみると、ポイント、ポイントで強運を発揮して、何とか乗り切ってきたことがわかります。強運の使い道としては、かなり効率的だとは思います。
 どうして一生懸命頑張れないのかなぁ、と考えてみると、心のどこかで逃げ道を用意しておきたい、という意識が働いていることに気づきます。逃げ道のない戦いはしたくない、というのは人情ですが、そんなことを言ってられないことがあるのも事実。残り1年をどう乗り切るか、ということに自分の一生が、そして、他人の一生までもがかかっている、と考えると、身の引き締まる思いなんですが、生まれてこの方28年以上、何かを必死にやったという記憶がない人間が、急に何かを必死に頑張れるようになるためには、大きな契機が必要なのかもしれません。ただ、そんな他力本願なことを言ってばかりもいられないので、自分にできる限りで頑張らなくては、と思うのでした。

 もう、鴨川の桜は散り始めました。
 関西に戻って早2年。いろんなことがあったようで、でも、あっという間だったようで、散りゆく桜を眺めていると、何だか不思議な気持ちになります。こういう、春の感傷的なところが、普段から感傷的な私には重すぎるんだなぁ、と思います。
 最近、大学ノートを買いました。講義用のノートはルーズリーフを使っているんですが、何となく、心に映ったことを書き留めたくて。要するに落書き帳ですね。ただ、こういう書き留めたことから、いろんな感情を表現する「言葉」を見出し、また、小説を書く日が来ればいいなぁ、と思います。

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春ですね♪

 実は、春はあまり好きではありません。あんまり春にいい想い出がないのかもしれません。ただ、桜は大好きです。
 今日は、大学、鴨川(実はその上流の高野川なんですが。)で桜を眺めてきました。春が嫌いなのに桜が好き、というのも変な話ですが、桜にはいい想い出がいっぱいなんです。

 というわけで、せっかく桜の写真を撮ったので、アップしておきます。
 桜を惚れた相手と眺める、というのが、ささやかな楽しみだったりするのでした。

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久しぶりのブックオフでお買い物

 昨日、久しぶりにブックオフでお買い物をしてきました。本当は一昨日に買う予定だったのですが、財布を忘れて出かけたので、一昨日は物色しただけでした。鳩とのバトルで疲れていたのでしょうかねぇ。

 春休みも残すところあと少し。春休みが終わって新学期が始まると、きっと忙しくなるだろうなぁ、というのは自分でもよくわかります。そういう忙しいときに、眠りにつく前に10頁くらいずつ読むための本を買ってきました。
 昔から本を読むのはすごく好きだったのですが、他にも楽しいことがいっぱいあったりして、読まない期間があったりとかもしました。でも、会社を辞めて学生に戻ってからは、コンスタントに読んでいます。きっと、法律書を読むことが勉強の第一歩だから、それで読む習慣ができて、その延長戦みたいな感じで読んでるからでしょうね。ただ、同じ本を何度も繰り返し読むのが好きなので、図書館でその都度借りるのは面倒。で、結局、古本屋さんによくお世話になるのです。
 比較的よく行く古本屋さんは、カナート洛北の隣の建物にある古本市場さんと、三条大橋東詰めにあるブックオフさんです。年甲斐もなく恋愛小説や詩集などを片手にうろついている胡散臭いおじさんを見つけたら、それは私かもしれませんね♪。
 というわけで、昨日は4冊の本を仕入れてきました。たぶん2箇月くらいはこれで十分だろうと思います。自分でもスゴイと思うのは、寝る前に本を(しかも法律書ではない本を)読むという習慣が、テスト期間中も続いていたことです。これは、正直驚きですね。1分1秒を惜しんで勉強する、というのは、性に合わないというのもあるとは思いますが(センター試験の前日に難波の場外馬券売り場で叫んでいたのを思い出します…。)、体が、小説を読むという行為を寝るという行為の契機として把握してしまっている感もあります。実家にはほとんど小説がなく(下宿に持っていってしまっているので。)、寝付きにくいのはそのためかも知れないなぁ、などと、勝手に納得しています。

 もう司法試験まで1年を切ろうか、というのに、ブックオフで本を買い漁っているなんて、相変わらずのんびりマイペースなんだなぁ、と改めて実感します。同窓会で、10年近く会っていなかった奴から、「相変わらずマイペースやなぁ」と言われたのを思い出します。自分ではそんなつもりは毛頭ないのですが、他人様から見ると、どうやらそう映るようですね。いろんな部分が、少しずつは変わってきていると思うのですが、本質的な部分は変わらないなぁ、とも思います。そういう本質的な部分が変わるのには、長い時間と大きな契機が必要なんでしょうね。まぁ、本質的な部分というのは、自分が自分であるということの裏返しみたいなもんだから、それが変わってしまって、果たして自分が自分なのか、というのはよくわからないです。三つ子の魂百までとはよく言ったものです。

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道具の偉大さ

 先日、久しぶりにゴルフ練習場(いわゆる打ちっ放し)に行ってきました。クラブを握るのは2年振りくらい。もともと、会社勤めをしていた頃、所属部署のコンペに参加したのがきっかけではじめたゴルフ。最初は結構、練習場にも通い、そこそこ頑張っていたのですが、上達する気配すらなかったので、途中からは半ば諦めムードが漂っていました。
 現在は学生である私。もちろん、学生の身分でゴルフなどできようはずもありませんが、そこは家族サービスの一環。父が新しいアイアンを買ったので、一緒に打ちっぱなしにいくことになったわけです。
 衝撃的だったのは、昔、自分が使っていた道具との明らかな差。真芯で捉えなくても通常の飛距離くらいが楽に出るクラブという魔法の道具があるんですね。かなり驚きました。そりゃ、こんなクラブを振っている方とは勝負になるわけがありません。1日ラウンドして、真芯で捉えるのが数えるほどだったので、スコアは散々なものでしたが、このクラブならもう少し人様にご迷惑をかけずにラウンドできるのでは、と思うくらいの差でした。

 さらに、最近、3年使った携帯電話に別れを告げ、機種変更をしてきました。理由は簡単。携帯がボロボロになってきたのと、充電池が1日持たなくなったことが理由です。学部時代は1年に1回くらい機種変更していたのですが、最近は機種変更するのに結構な費用がかかるので、何とかポイントを貯めて、ようやく安くで機種変更できるようになりました。
 最近の携帯電話はスゴイですねー。ワンセグとやらでテレビは映るし、音はいいし、さらにデータフォルダの容量がでかい!!…時代に取り残されてるなぁ、というのを実感します。まだ、時代に取り残されるには若すぎるんですが(笑)。

 人が言葉という道具を手に入れてから、もうどれくらいの時間が経つでしょうか。この素晴らしい道具は、人に大きな進化をもたらしたとともに、大きな葛藤も生み出してしまったんだなぁ、と、最近、つとに思います。しかし、道具は使いよう。件のゴルフクラブも、件の携帯電話も、使いこなせなければ宝の持ち腐れ。
 言葉が人間の宝で在り続け、そして、持ち腐れにならないことを、切に願う今日この頃です。

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バトルのその後

 先日書いた鳩との壮絶バトルのその後です。
 ネットで検索した鳩対策として、要らなくなったCDを吊るすというのがあったので、やってみました。鳩がいた場所のそばにCDをぶら下げ、これでバトルは終了するかと思われたのですが、世の中そんなに甘くはありません。
 作業中は、さすがに鳩もどこかに飛んでいったのですが、その日の夕刻、窓の外でカタカタと音がするので、そーっと覗いてみると、何とCDをぶら下げた紐を、件の鳩がつついて遊んでいました。街に生きる鳩はたくましいんですね。何とか新たな対策を…、と思案するも、ネットで紹介されている他の対策は、鳩よけネットを張る等、資金が必要になるものがほとんど。しかも、鳩が来る場所がエアコンの室外機と壁の間で、ちょっと自分ではネットを張れそうにもなく、業者を呼ばないといけない。となると、やはり大家さんにお願いするしかなさそう。
 その前に、とりあえず、鳩をビックリさせて、恐怖感を植えつけたら来なくなるかも、と思い、夜中が来るのを待ちました。そして、深夜、音を立てないように窓をあけ、寝ている鳩をハンガーで軽く小突いてみました。当然、睡眠中だった鳩は、突然の襲撃でパニックに。狭いエアコンの室外機と壁の間で大きく羽を広げようとしてぶつかり、慌てて外へ飛び出すと、2、3度あたりをグルッと回って、その後、どこかに飛び去っていきました。安心した私は、これで眠りについたでした。
 翌日、夕刻、また、鳩がやってきました。懲りない奴です。仕方がないので、今度は少し強めにハンガーで攻撃しようと窓を開けると、一目散に逃走。拍子抜けしたのですが、一方で、昨夜の恐怖を学習したのかな?と、少し効果を感じました。
 その後、本日までは、まだ鳩の姿を見ていません。このままどこかの山林にでも帰ってくれればいいんですが。

 誤解のないように書いておきますが、別に動物イジメをしているわけではないのですよ。人間と他の動物の共生が可能であれば、それに越したことはないのです。もっとも、基本的に動物愛護とかいう宗教の信奉者ではないので、駆除やむなし、という結論を否定するつもりは毛頭ありませんが。

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バトル勃発!!

 いや、何というか、疲れて8時前には寝ていたので、こんな時間に目が覚めちゃいました。というのも、昨日は、我が家でバトルが勃発していたからです。おかげでのんびり競馬をする予定の日曜日が、あっという間に終わってしまいました。
 さて、何のバトルか、といえば、鳩とのバトルです。
 先月は、ほとんど家を空けていて、気づく暇すらなかったのですが、我が家のエアコンの室外機と壁の間に、鳩が巣を作っていました。これから夏に向け、クーラーは使わないわけにはいかず、かわいそうですが、何とかして撤去することに。しかし、鳩もそこは必死。普通は人間が10センチくらいの距離に近づくと、逃げるのですが、何というか敵意むき出しに鳩胸になって、羽を広げて威嚇してきます。

Photo  写真をごらんになると、普通の鳩ですが、まず、この写真が携帯で撮影されたものである点にご留意ください。携帯のカメラでこんなに大きく撮れるくらい近くに寄れるのです。しかも、寄っていくときは鳩胸&羽を広げて威嚇してきます。そのシーンを撮影しようと試みたんですが、シャッターチャンスが短いため、携帯のカメラの撮影スピードに追いつかないのでした。

 結局、鳩の巣は撤去。しかし、鳩はいなくなる様子はありません。仕方がないので、ネットで鳩対策を紹介しているHPを検索し、一番手近な対策として紹介されていたものを実施することにしました。紐を用意し、不要になったCDをぶら下げる、という簡単な対応です。今まで気づかなかったんですが、よく見ると、どうやら各部屋の住民の方も、同様に鏡やCDをぶら下げ、鳥よけ対策をしている様子。今日から我が家も仲間入りです。
 けれども、CDを吊った2時間後、鳩が巣のあった場所で寝ていました…。どうやら大家さんに相談するしかなさそうです。うーん、何とも面倒な問題が出てきたなぁ、という感じです。
 それにしても、鳩との戦いでこんなに疲れて眠ってしまった自分が情けない。

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不快感の正体~このブログを書く私の信念~

 ネットでいろんなものを見ていると、ヘンテコリンな日本語が氾濫していることに、今更ながらに気がつく。誰かに読んでもらうという意識の欠落した言葉。それを言葉というかはひとまず措くとしても、それは、現代に生きる人の心の歪みを表していると思えてならない。

 正しい日本語なんて、と私自身も思っていた。言葉というものは、人から人へと物事を伝達するツールであって、物事の伝達に支障がなければ、正しいか正しくないかなどという議論は不毛であるとさえ思っていた。しかし、こうも不可思議な日本語が氾濫しているのを目の当たりにすると、自分は不快を通り越して吐き気に似た気持ち悪さに襲われる。
 その不快の原因は一体何か、ということを、最近、真剣に考えていた。
 おそらく、それは、言葉が物事を伝達するツールであるはずなのに、読んでも、あるいは聞いても、何も理解できない。そんな言葉が氾濫していることが原因だろうと思う。理解できないといっても、それは、難解な言葉だという次元ではない。何かを伝えたいとか、誰かに読まれたいというわけではないもの、昔で言えば、自分の机の引き出しにそっとしまわれていた自分以外が読むことを全く予定しない個人の日記のようなものが、他人の目に触れることを全く考慮されず、衆目に晒されている点が、ひどく気持ち悪いのだ。しかも、それを平気で他人のテリトリーの中でも垂れ流すのである。このあたりに、どうやら私の不快感の正体が潜んでいるのだろう。
 難解な言葉でも、言葉である以上、伝えたいことがそこにはある。それは、あくまで他人の存在を前提にしているからだ。難解か否かは、その言葉に込められた表現者の意思にもよるし、表現の巧拙の問題もある。しかし、前述したようなシロモノは、自分以外に誰も理解することを求めない、いわば言葉としての価値がないものだと、私は思う。
 更に言えば、そういう輩の言葉は、他人の存在を前提にしないから、独りよがりな省略がやたらと多いような気がする。これも自分が吐き気を感じるほどに不快な原因であろうと思う。省略という表現技法は、本来、他人がそこを充分に補えるだけの情報が、前後の文脈等で与えられていることを前提とするはずである。そこに何を補うかは、読み手、聞き手の自由であるし、表現者の意図とは全く異なったものが補われることもあろう。しかし、ここでも重要なことは、他人の存在が前提になっている点である。表現者には、他人に補って欲しいと考えることを、他人が適切に補えるように表現することが求められるのである。しかし、他人の存在を前提にしない言葉には、その前提が欠けているのである。私の不快感の正体は、どうやらこれらしい。

 もっとも、彼らが自分の大学ノートに何を書こうが、自分の部屋で独り言をつぶやこうが、そのようなことはどうでもいいことである。自慰行為なんだから、それはそれでいい。あるいは、ネット上で自己が作ったHP等においてそういう言葉を書くのも自由だろうと思う。そのような醜悪な自慰行為を見たくない人間は、そこから目をそむけることができるからである。しかし、私が辟易しているのは、それを自慰行為であると認識しない輩の多くは、平気で他人のテリトリーにもそれらを垂れ流すことなのだ。仮に彼らがそれを自慰行為であると認識しているとすれば、それを殊更に他人のテリトリーで行うというのもどうかしているとしか思えない。
 私は、私が目を背ければ見ないで済むことに対してとやかく言うつもりはない。しかしながら、私が目を背けることができない場所で彼らを見つけたときは、徹底的に非難したいと思う。それは、言い換えれば、私のテリトリーの中でそのような言葉を臆面もなく使い、さらに私に理解を求めるような愚行をする輩に対して、徹底的に非難するという意味である。
 他人に送る手紙を相手が読めない文字で書く人がいるだろうか。あるいは、他人に何かを尋ねられて、相手が理解できない言語で応える人がいるだろうか。この問いの答えは、絶対にNoだ。例えば会社の上司が部下の結婚式でスピーチを頼まれ、会場の誰も理解できない言語でスピーチをするシーンを思い浮かべるとよくわかる。そんなスピーチなら不要なのである。家で鏡に向かって独りですればいいのだ。スピーチの本質は、聞き手に理解してもらうことだからである。
 かく言う私も、果たしてこのブログにこうして文字を並べることで、読んでいただいている方々に何かを伝えられているか、というと、甚だ疑わしい。しかしながら、私が信念として持っているのは、読んでくれる人が少なくとも字義を、あるいは文意を容易に理解できるような文章を書きたい、ということだ。私が文字に込めた思いなどは、上手く伝わらないかもしれない。それを表現するには私の能力があまりに拙いので、この点はご容赦いただきたい。しかし、私は、何かを伝えたいという信念こそが最も大切なものなのだと信じて止まない。他人に理解されたか否かは問題ではない。ただ、自分の言葉には他人の存在があるか、という点に、私の信念についての議論は尽きているからである。
 別に、小説家のような言葉である必要などない。ただ、自分のブログの上の言葉は、受け手の存在を前提にした言葉であって欲しいと、切に願うのみである。

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言葉の魔術

 最近、競馬予想そっちのけで「雑記」と称したカテゴリの記事をよく書いています。今日もその「雑記」。

 例えば、
① 試験の答案の返却時に先生から「基本はできている」と言われる
② 試験の答案を見せた同級生から「基本はできている」と言われる
という2つの場合では、まったく印象が違うと思われます。どちらも真実を述べているとすれば、「基本=できている+応用=できていない」というニュアンスだと思いますが、前者は上から言ってしかるべき立場の方の発言、後者は上から言うべき立場にない方の発言だとすれば、聞き手の受ける印象は大きく異なると思われます。具体的には、後者の方が言葉の不快感が強いことが多い、ということです。
 後者のような場合は、「基本はできている」ではなく、「応用がいまいち」というやんわりとした(これは多分に感性の問題ですが、これが一致しない方と長時間一緒にいると、不意に殴ってしまいそうになる、人間の小さな自分がいます(笑)。)言葉を、あるいは「基本はできているけど応用はできていない」というはっきりとした言葉を選ぶべきなのではないでしょうか。特に応用ができなければ意味がないような場面での発言であれば、尚更そうだと思います。
 仮に万が一、「応用=できていない」という意味での言葉でないならば、「基本ができている」という言葉を使うべきで、「が」と「は」の1文字の違いではありますが、言葉の意味は、非常に大きく違います。殊に相手の弱点等を指摘するときに、相手の想像力を必要とする物言いを、上から言うべき立場にない方がした場合、それだけで相手の人間性自体を疑ってしまうのは自分だけでしょうか?
 想像で自分の弱点を指摘されていることを補って言葉の意味を解釈しろというのは、実はそれ自体が汚い(あるいは乱暴な)言葉の使い方だと思われてなりません。上の例は、言葉の意味が比較的容易に導ける場合ですが、中途半端に読めてしまうギャル文字メールなどで同様の例を想像すれば、聞き手(メールでは読み手)が可能な限りで善意的に解釈すれば自分への否定的な言葉が出てくるなどということになってしまうのであり、敢えてそのような言葉を使う必要性が、自分には全く理解できません。そのような言葉の使い手は、それはそれで需要のあるところで、その汚い言葉を使えばいいのではないかと思うのです。
 幸いにも、現在、ネットというものが普及して、そういう汚い言葉を使う場所が無限に見つかることでしょうし、自分に近づいてきたものをザクッと切り捨てることも強ち心が痛むわけでもないことでしょう。とすれば、相手の言葉を解釈することなく放置しておくことも別に問題がなさそうに思えます。
 以上を簡単に言えば、良薬は口に苦しといいますが、医者が同種の甘い薬があるにも関わらず、わざわざ苦い薬を処方するということは、たとえどのように良薬であっても、苦いことに意味がない限りは不要である、と考えるというわけです。

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ラベリングの葛藤

 南の島で、朝っぱらから何を考えているのか、と思う。でも、何だか頭の中でモヤモヤするので、ちょっと文字にしてみる。

 物事をラベリングして、それを分類して、傾向を捉えて、何か結論めいたことを言ってみる。 何となく、競馬の予想にも似ているが、別に競馬の予想だけに限らず、何事においても、そういう側面はあると思う。
 ただ、何故そのラベルを貼るのか、ということには、慎重でありたいと思う。例えば、ある会社はこうだ、とか、ある地方の人はこうだ、とか、こういう物言いは、できる限りしたくないと思う。
 もちろん、はっきりと論理的に結論が出ることならば、それでいいと思う。しかし、結論が出ることの方が少ない世の中にあって、結論めいたことを言うのに焦りは禁物。結論と結論めいたことを峻別すると共に、のんびり構えて、必要なときにだけ1つずつ、結論を導き、あるいは、結論めいたことを導けば、それはそれでいいと思う。
 例えば、aはAに含まれている、Aは○○という傾向がある、という情報だけで、aならば○○、という結論めいたことを言うことはできるかもしれない。しかしながら、それは、A全体としての傾向(あくまで傾向)であって、aがAの傾向と果たして同じになるか否かは、多分にaはAに含まれている、という分類の視点に拠っている。分類するのは勝手にできるが、それがきちんと的確な分類か否か、ということは、実は非常に危ういことが多い。原則としてはこうだが、例外がある、なんてこともしばしば。
 分類の視点が多くなればなるほど、先入観を持って物事を見てしまうのではないか、という危惧もないではない。さりとて、真っ白な状態で物事を見るなどということは、凡そ人間には不可能だとも思われる(言葉を持っている以上、例えばある生物が「猿」である、という認識の中にも、既にある生物に対するラベリングは潜んでいる。)。とすれば、我々にできることは、分類の視点に囚われない真っ白な状態を、常に幾分か心の片隅に用意しておき、適宜、それを使い分けられるように努力することくらいなのかもしれない。

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あいにくの空模様

 沖縄旅行も今日で4日目。
 あいにくの空模様が続いており、今日は、ジャケットがないと少し寒いくらいの冷たい風が吹いています。時折、細かい雨が降ったりもします。
 先ほど、お世話になっているお宅の近所のスーパーへ、晩御飯の食材を買いに行ってきました。もやしと豚ばら肉を購入。今夜は焼きうどんの予定です。折角沖縄に来たんだから、沖縄料理も食べたい、とは思うのですが、貧乏学生は食費をケチって頑張るしかありません。金曜日までは我慢です。
 学部の頃、ウロウロした沖縄の観光地とは違って、今回、お世話になっているお宅の周りは、沖縄の方の生活感が溢れています。道を歩いていると、修学旅行生ではなく、沖縄の高校生や中学生が歩いていますし、スーパーに入ると、ゴーヤなんかが野菜売り場に当たり前に転がっています。

 そんなことはさておき、先ほども書きましたが、今夜の晩御飯は焼きうどんの予定です。昨日はチキンカレー、一昨日はマカロニグラタン、一昨昨日は鳥鍋味噌仕立てでした。相変わらず、料理を作るとなると、手際の悪さが…。特に包丁は、バイトで中華鍋を振っていた頃も使うことがあまりなかったので、どうしても不器用な使い方しかできません(笑)。自分で包丁を使いながら、危なっかしいなぁ、と思ったり。
 まぁ、ボチボチとやります。
 沖縄に来ても、日中はお勉強して、晩御飯の材料を買いに行って、準備して、という感じですね。まぁ、今回の旅行は、目的が観光なわけでもないし、のんびり癒されながら、ゆっくりとした時間の流れを堪能したいと思います。

 忙しいという漢字は、心を亡くすと書きます。まさにそんな気がします。
 学部生を2年、社会人を4年、大学院生を2年。20歳を過ぎてからの自分を振り返ってみると、忙しくなればなるほど、誰かを傷つけてきたなぁ、と思います。せめて、時間に少しだけ余裕のある今だから、できることをしたいと思います。

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普遍的なものへの憧憬

 例えば、虹は7色だと思っている人と3色だと思っている人がいるとします。では、どちらが普遍的な真理でしょうか。どちらも普遍的な真理だとは言えないでしょう。赤橙黄緑青藍紫の7色の言葉を持っている人と、赤、黄、青の3色の言葉を持っている人の差というだけだと思うのです。
 1つだけ普遍的な真理は、そこに見えているものであって、それ以上に何かがあるわけではありません。言葉とは、そういうものです。そのことをしっかりと心に刻みつつ、それでも、普遍的なものを言葉に落とし込めないか、という無謀なことに挑戦し続けていきたい、と思ってブログの文章を書いて、推敲して、書き直して、ボツにして…。
 誰の瞳にも、全ては平等に映っていると思います。誰の耳にも、全ては平等に聞こえていると思います。そのような中で、気付くか、気付かないか、あるいは感じられるか、感じられないか、ということが大切なんです。自分が文字を書くときは、何とかその「普遍的な真理」へと近づきたい、と思っています。

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勢いが大切です。

 何事も勢いが大切だと思う今日この頃。
 趣味でそのときに感じたことを書き留めているんですが、これがなかなか続かない。毎日書く日が続いたと思ったら、今度は何日も書かなかったり。小説家の方のモチベーションの維持には頭が下がります。どんなに書いても、一日で何百ページもある小説を書きあげることなど不可能でしょうし、きっと毎日書かれるんだろうなぁ、と思います。
 そういえば、直木賞作家の角田光代氏のドキュメンタリーをテレビでしていましたが、彼女は、一日に書く時間を決めているようでした。淡々とした生活。それぞれスタイルはあると思いますが、毎日書くことが大切なんだと思います。ご飯を食べたり、お風呂に入ったり、トイレに行ったりするのと同じように書く。これができるかどうかが大切なのかなぁ。
 それは我々学生にも言えることで、淡々と勉強することが大切なのかもしれません。
 勢いが大切だけど、息切れしちゃう勢いではなくて、続けることが大切なんだと思います。淡々と、勢いをつけて勉強しなければですね。

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言葉を操る能力

 自分が理解できない異国の言葉を話す人の方を見て、「日本語をしゃべれないからコイツはバカだ」と思う人はいないと思います。例えばどうしても英国の人と話すことが必要であれば、相手が使う言葉を使って話しかけるしかないでしょう。もちろん、ジェスチャーとかのコミュニケーションツールもありますし、その方がよく伝わることがあるのも事実です。でも、これは相手方が同じ言語を話さないといったこととはあまり関係のない話でしょう。特に客観的な事実等を伝える場合等には、共通の言語によることが不可欠です。通訳を介するならば、両者の言語を共通の言語としていると言えると思います。言葉ってすごいなぁ、と実感。

 しかし、最近、同じ日本語を話す日本人なのに、日本語が通じない方が多くて辟易しています。
 自分が使う言葉を相手も使っているはずだ、という先入観があるのでしょうが、辞書に載っている言葉を知らないという知識の問題は措くとして、独自の言葉、表現、略語、言い回し等を平気で相手に対して投げかけ、理解しなければ相手を非難するというとんでもない輩が多いのです。どういう意味か尋ねると、知らないことをバカにするような答え方をするのが、このような輩の特徴です。しかし、実はその言葉を知っているのは、ごく限られた狭いカテゴリーに属する人だけなのです。相手がそのカテゴリーに属する人か否か、ということに、もう少し気を使うべきだと思いませんか?彼らも、日本語は一応、話せるようなのですが、人に理解してもらえるように話すということに無頓着なので、さながら、カルト宗教に妄信する方が、世界の終末を独自の言葉で注意喚起するようなかんじでしょうか。
 この点を指摘しても、いっこうに改善される兆しはなく、まさに自分のような人間からすれば、外国人の方と話しているような錯覚に陥ることもしばしばです。別に彼らがバカだとは思いませんが、仮に(あくまで仮にですよ。)どんなに有用な話をしてくれていても、それが日本語として理解不能なものでは、無価値なものであることは疑いようのない事実です。
 考えてみてください。例えば心斎橋あたりを歩いていて、異国の言葉で話しかけられて、こちらが理解できないと、相手からひどく日本語で罵られるような状況を。まさにこれと同じようなことが、最近、身の回りでよく起きるのです。困りましたねぇ。
 まぁ、相手にしなきゃいいことなんですが、しつこく絡まれると、こちらとしてもイライラが募るだけなので、最近では、極力そういう輩のそばに行かないようにしてみたりとか、ささやかな抵抗を続けています。社会で生きる以上、腹が立つからといって決別していたらきりがないし、適当に上手に付き合っていくしかないんだなぁ、と思います。

 言葉を操る能力は、別に才能とか、そんな高次の問題ではありません。そんなことは、文学者や小説家に任せておけばいいと思います。ただ、日々の暮らしの中で、何か相手に伝えたい、と思ったときに、自分が伝えたいことを相手に伝えられればそれで充分です。もっとも、言葉である以上、誤謬を含まざるを得ないし、その結果として誤解も生まれることがあると思います。それは、言葉というツールが内包する弱点でもあって、それを理解した上で、上手に使うことが必要なのであり、それこそが、まさに言葉を操る能力なんだと思います。

 と、ここまで偉そうなことを書いてみましたが、自分自身も無意識に変な言葉を濫用していることがあるのだろうと思います。
 ただ、小説を書いているときに、ある出来事をどのように表現するかは、小説を書く人の自由でしょうし、読者が理解できるか否かは二次的問題だと思います。あとから評価されるかされないか、という問題しかそこにはないからです。しかし、誰かと話すときに、ある出来事をどのように表現し、伝えるか、ということは、実はそれとは異質な問題です。相手に伝えることが目的だからです。前述した小説の例でも、読者に何かを伝えたいと思うならば、読者が理解できる言葉を使うべきですが、かといって暗号で著した小説が小説たりえないか、といわれれば答えは「ノー」です。暗号であっても、小説は小説です。けれども、相手に話しかける言葉は、意味が通じなければ、それは音なり記号でしかなく、それ以上に価値はありません。
 そのことを心に留めながら、また、ブログの記事を書いていこうと思います。

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