本の感想等

『見えないドアと鶴の空』

 最近、お勉強をやる気が起きず、ダラダラと時間を溶かすのもどうかと
思い、いろいろな小説に手を出しています。ダラダラと無駄なことをする
よりは、少しは有意義かな、と思っています。
 元来が、適当な人間であり、限界まで頑張る、ということが苦手な自分。
そもそも、お勉強なんて、やる気がないときにすると、頭には入らない上、
苦痛以外の何物でもありません。そんなときは、精神のリフレッシュが必
要です。弱っている精神をリフレッシュする方法は、人それぞれですが、
自分の場合は、読書とこのブログの更新がそれに当たると思います。

 さてさて、タイトルの『見えないドアと鶴の空』は、再三、当ブログで
感想を書いている、白石一文氏の著作です。

見えないドアと鶴の空 (光文社文庫 し 30-3) Book 見えないドアと鶴の空 (光文社文庫 し 30-3)

著者:白石 一文
販売元:光文社
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 著者の作品は、現実世界が舞台のものばかり読んできました。この作品
も、舞台は現実世界であることは間違いがないと思います。が、この作品
は、少しSF的な要素が含まれています。別に、宇宙世紀00XX年とか
いうわけではありません(笑)。ただ、不思議な力を持つ女と、その女に
出逢ってしまった男の恋愛模様が、彼女の育った時間を男が追うという感
じで描かれており、そういう意味で、SF的と申し上げているのです。不
思議な力とは、一言で申し上げるならば、超能力のようなものですね。し
かし、この作品が、著者の他の作品とそんなに毛色が違うか、といえば、
答えは否です。著者独特の世界観が存分に表現されていると思います。人
間の生と死、出逢いと別れといった点に焦点を据え、その周囲の出来事を
描いている、という点では、むしろ他の作品と同じ系統に属する、という
ことが言えると思います。

 印象に強く残った箇所はたくさんあるのですが、ここで長々と引用する
ことにはいろいろと問題があると思いますので、本の帯に引用されている
部分から。
 「憎むのではなく、憎みあうのだ。愛するのではなく、愛し合うのだ。」
 この言葉が、なんだかずっしりと心に響きました。人は、1人では生き
てはいけない。であるならば、相手方を必要とする感情、例えば、憎むと
か、愛する、というのも、憎み合う、愛し合う、という形に行き着くので
はないか。他人を憎む気持ちを貫けば、相手からも憎しみが返ってくる。
他人を愛する気持ちを貫けば、相手からも愛が返ってくる。そうやって、
相互にお互いの個の感情が複雑な縺れ合い方をしながらも、最後には双方
向での1つの感情の束へと集約していくのではないか。そんなことを考え
ながら読んでいました。
 とかく個人主義が悪しき形で叫ばれることが多い昨今、こういう世界観
があってもいいのではないか、と大いに感じました。それは、悪しき全体
主義への回帰を望むものではなく、そこにあるがままの形で人間が生きる
ということを受け入れる、という、ただそれだけのことなのだ、という著
者の思いを強く感じました。

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月9の悲劇

 この秋、大ヒットとなっているドラマ。その原作を、彼女が貸してくれたので読んでみた。東野圭吾氏の「探偵ガリレオ」。分類としては、おそらくミステリーになるのだろう。

探偵ガリレオ (文春文庫) Book 探偵ガリレオ (文春文庫)

著者:東野 圭吾
販売元:文藝春秋
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 この本は、今までのミステリーとは少し赴きが違う。主人公が研究者、という点は、決して珍しいものではないが、これまでの名探偵(例えば、明智小五郎とか、金田一耕助とか、シャーロック・ホームズとか、エルキュール・ポアロとか。)が、犯罪の全体像を解き明かしていくのに対し、この物語の主人公・湯川学は、彼の興味を引いた点のみを解き明かしていく。例えば、殺人の動機とかいうものについては、ほとんど相方とでも言うべき刑事が解いていくのである。かといって、ミステリーではないのか、と問われれば、答えに窮することになる。ミステリーとして十分な種々の趣向が凝らされており、また、描かれているのは、まさに犯罪捜査活動の一場面なのである。冒頭、おそらくミステリーに分類される、と書いたのは、自分自身のこれまで考えていた「ミステリー」という小説のジャンルと少し毛色を異にするため、何となく言い切るのがはばかられたためである。
 全体的な印象としては、主要登場人物以外の細かい設定が、短編集ということもあって、ほとんど描かれていない分、読者は、より想像力をかきたてられる感じがする。また、短編集であるが故に、テンポよく読み進めることができるのもいいと思う。
 理系出身のこの著者独特のバックグラウンドを感じさせられる傑作だと思う。と言っても、小学生程度の理科の知識があれば、十分、楽しく読める仕上がりなのは、さすが一流作家、という一言に尽きる。登場人物も、各々にはっきりとした個性を持って描かれており、ドラマ化の話が持ち上がったのも頷ける作品だと感じた。

 で、月9のドラマについて。初回こそ外出しており、ビデオの予約を忘れたため見逃したが、以後、毎週、見ている。ドラマとしては大変面白い。昨今のドラマ不振の中で、高視聴率を叩き出しているのにも納得ができる。主人公・探偵ガリレオこと湯川学を演じる福山雅治氏の独特の雰囲気がいい味をだしている、と思うし、柴咲コウ氏の女刑事もはまり役だ、と思う。コミカルにテンポよく進むストーリーにも好感が持てる。
 しかし、である。主人公である探偵ガリレオこと湯川学に福山雅治氏をキャスティングしたのはともかく、少なくとも、上で感想を書いた小説内では登場すらしない女刑事役を登場させた点はいただけない。それは、ドラマを面白くなくしている、という意味では決してない。けれども、原作を読んでしまうと、月9というドラマの放送枠の持つブランドイメージを、映像化に際して無理やり持ち込んでいる印象を受ける。素材として十分に美味しい食材に要らぬスパイスを振りかけたような感じ。月9は恋愛事情を描かなければならない、という固定観念が、この小説の映像化の大きな障害となっているように感じられてならない。
 これは、まさに月9の悲劇としか言いようがない。ドラマとしては面白いだけに、評価は分かれるところだと思うが、少なくとも、これでこの小説が原作です、というのはいかがなものか、と思う。もちろん、その著者、あるいは著作権者が映像化することに了解を与えているのであろうし、それをファンがどうこう言う筋合いではないのかもしれない。また、映像化されたものの権利は別人に帰属し、そのことは、とりもなおさず、映像化されたものが新たな創作物ということを意味するのかもしれない。しかし、小説等を読んでこう解釈する、という域を超えた創作が加われば、もはやそれは、模倣や贋作、あるいはタイトルの借用に等しい、と自分などは感じたりするのである。あくまでも、ファンのぼやきであるが。
 素晴らしい小説、あるいは、漫画といったものをドラマ化、映画化すると、この種の問題は常に起こることだろう。それは、映像化するときに避けて通ることはできない壁なのだろう。しかし、映像化するときには、原作を忠実に再現するべきだという意見は、小説ファン、漫画ファンの間に根強いのではないかと思う。もちろん、各人毎に文字から、あるいは絵から作り上げる想像上の人物像を100%で映像化することなど、実はおよそ不可能である。が、だからといって勝手な付け加えや削除が行われてよいことにはなるまい。
 確かに、著作権等の諸権利の体系の中に、当事者としてファンが入り込む余地はないだろう。映像化されて文句を言うなら映像化されたものを見るな、というのも正論であるようにも思う。けれども、ファンであるが故に、映像化されると、大方はがっかりすることになるだろうと思いつつも、見てみたいと思うものではなかろうか。また、自分がこう読んだ作品を、他の人はどう読んだのか、という点を窺い知ることができる、という楽しみもある。それに応えるような仕事を、小説、漫画等の書籍の映像化に携わる方々にはお願いしたい。ある小説、ある漫画にヒントを得た、しかし、似て非なる作品、というドラマ、映画が原作「○○○○」と騙ることが多すぎるように思えてならない。
 著作権等の権利の体系には、決して当事者として登場することのない、しかし、その権利を支える無数のファンが個々に膨らませた想像を、もっと大切にして欲しい、と思う。

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『デッドエンドの思い出』

 久しぶりにこちらも更新です♪。

 新学期が始まりましたが、おかげさまで前期の間に卒業に必要な単位は全て取得できました。よって、後期は興味がある科目だけ出席する予定にしています。

 お勉強しなければならないなぁ、とは思いつつ、少し時間に余裕ができたので、久しぶりに小説を読んでみました。その本は、『デッドエンドの思い出』(よしもとばなな著・文春文庫)です。
 「デッドエンド」という言葉の意味は、「①行き止まり。袋小路。②物事が行きづまった状態。」ということらしいです。「袋小路」とは、「 行き止まりになっている小路。転じて、物事が行き詰まること。袋道。」なので、要するに、行き詰まった思い出というような意味合いになるわけです。
 この本自体は短編集なので、他の作品も一緒になっているわけですが、その中でも、このタイトルがつけられた作品が、すごく気に入ってしまいました。

 文章の読み手側の想像が、少し掠れたような、それでいて、輪郭だけはハッキリとした感じを抱かせる作品でした。
 最近、よく思うのですが、結構、自分は物事についての考え方が、女々しいというか、女性的というか。とかく、男の視点というものへ憧れはするけれども、現実世界で、まさに、現実に考えていることといえば、何と言うか、現実的で、つくづく嫌になります。夢を語れる男になりたい、と思うのですが、実際は、夢を現実サイズへとダウンサイジングするのがやたらと得意なわけです。それはそれで、手堅い生き方だとは思いますが、自分の限界線を自分自身で引いているせいで、本当の限界まで頑張ることができない、というかなり大きな弱点を孕んでいるのです。
 「頑張る」というのは、これはこれで1つのスキルなんだなぁ、と思います。決してイヤミでも何でもなく、能力なんてなくても、「頑張る」ことができる人ってスゴイと思います。結果を出す能力はなくても、「頑張る」という能力は、遺憾なく発揮されているわけですから、単なる結果だけでなく、そのプロセスも含めて考えてみれば、それは素晴らしいことだと思います。

 で、何故このような話を書いているかというと、この本を読んで、こういう自分自身の思いが、より強くなったからです。自分自身の本当の限界を、自分自身が知ることができたら、どんなにか素晴らしいだろう、と思うのです。そして、それに気付いていく主人公・横山ミミの姿が、どこか自分自身にオーバーラップするような気がして、本当に気持ちのいい作品でした。幸せというものは、どういう形をしているのか、あるいは、形なんてないのか、どういう風に手に入れるのか、それとも手に入れることはできないものなのか。いろんなことを考えながら、あっという間に読み終えていました。

 特に、印象に残った一節を。

 今ならわかる。最低の設定の中で、その時私は最高の幸せの中にいたんだということが。
 あの日の、あの時間を箱につめて、一生の宝物にできるくらいに。その時の設定や状況とは全く関係なく、無慈悲なくらいに無関係に、幸せというものは急に訪れる。どんな状況にあろうと、誰といようと。

 そういう感じ方が、どこか自分自身と重なったわけです。

 以上、感想でした。

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一人称、小説、疑問。

 一人称をどう書くか。最近の自分のくだらない悩みの一つ。
 いろいろ考えてみる。「僕」、「私」、「自分」、「小生」、「拙」、「俺」、「我輩」…。働いていたときには、メール等で「弊職」、あるいは「小職」というのも使っていた。でも、どれも何となくしっくりとこない。何故だろう、と考えてみる。
 ブログにアップする文章で、一人称を「僕」とするのは、どことなくこそばゆい。かといって「俺」とすると、何だか乱暴な気がする。で、「自分」というのに落ち着くのだが、それもしっくりとはきていない。「自分」と書くと、少し自分自身と距離を置いて書いている気がする。いろんな小説を読んで、特に主人公を一人称の視点で描くもの(いわゆる私小説)を読んでよく思うのは、一人称の使い方が、場面ごとに自分の中でしっくりとくる作家の小説は読みやすい、ということ。

 先日、薦められて『僕のなかの壊れていない部分』( 光文社・2002年8月)を買った。毎晩、少しずつ読もうと思っていたのだが、読み始めると引き込まれてしまって、あっという間に読み切ってしまった。
 内容は、タイトルから察するとおりの暗い話である。タイトルからして、他人に薦めるのが憚られる気もし、どうしてこの本を自分が薦められたのか、よくわからなかった。が、一応、薦めてもらったので、書店で購入。ちょうど実家から京都へ帰る途中の駅(淀屋橋駅)で書店を発見し、電車の中で読もうと思って購入したのだった。
 京阪特急に揺られながら、ページを開き、十数頁読んだだけで、主人公の思考パターンが、自分とあまりに似ているので、どんどん吸い込まれてしまった。このとき、何故この本を薦められたのかも、何となくわかった気がした。

 いつも自分自身の逃げ道を作っていると、最近、指摘された。自分ではそれを認識しつつ、気付かないふりをしていたが、いざ、面と向かって指摘されると、改めていろいろ考えてしまう。
 この小説の主人公も、そんな感じで生きている。自分なりの、そして、自分勝手な屁理屈を生み出して、自己陶酔にも似た心境の中で生きている。けれども、実は自分が本当のことを知っていることに、わざと気付かないように生きているともいえる。
 本当のことから逃げるように、論理で武装しようとしたりといった生き方。
 他人との距離感を上手く保てないということを、決して悪いことではないと考えて、孤独を楽しんでいるふりをしているような生き方。
 自分が誰かと近くにいたいと思うときも、離れたいと思うときも、驚くほど不器用な主人公が、場面毎にいろいろなことを思考する、というのが、妙にリアルに感じられた。

 少し興味があるのは、小説を読むときに、主人公と自分をピッタリと重ねる自分のような人間ではなく、外の視点から読める人間がどう感じるのか、ということだ。
 自分自身が他人からどのように見えているのか、ということを、今まであまり考えたことがなかった。この小説の主人公がどのように映るのか、ということに興味があるのは、あるいは、自分が他人にどのように映っているのかを知りたい、と思うことなのかもしれない。

僕のなかの壊れていない部分 Book 僕のなかの壊れていない部分

著者:白石 一文
販売元:光文社
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