競馬予想理論総論

競馬予想理論総論3(予想の材料)

 昨日までは抽象的な話ばかりでしたが、今日からは具体的・実用的な話を始めます。
 競馬をする人の多くは、競馬専門紙またはスポーツ新聞などで、出馬表(注1)を見て予想しています。この出馬表からは何がわかるのでしょうか。
 ぱっと眺めても、その馬の近時の競走成績、その馬の血統(注2)、競馬場別の成績、距離別の成績等が出馬表からわかります。他にも様々なデータが満載です。どのデータをどのように用いるかは各論に譲るとして、総論のここでは、自分が予想に用いているデータを簡潔に述べるに留めます。
 まず、血統(注3)。サラブレッドは、父へ父へと辿っていくと、必ず3頭の馬にたどり着きます。ダーレーアラビアン、ゴドルフィンアラビアン、バイアリータークの3頭です。従って、各競走馬は、皆、近親配合です。これは、10代前まで遡れる血統書を見ていただければわかるのですが、その血統書の中に同じ馬がいないサラブレッドはいません。ということは、ある馬の血が濃い、つまり遺伝子が強調される、ということが起こりうるのです。競走馬、特にオス馬(以下「牡馬」といいます。ちなみに、以下ではメス馬は「牝馬」といいます。)は、競争成績等他の馬より評価が高くなければ子孫を残せません。従って、父となる馬は限られています。それが300年以上繰り返されてきたのですから、当然の結果です。そして、現在において、その歴史が血統による競争への影響という形で影を落としているわけです。この影響力を予想に使おうというわけです。
 次に、競馬に携わる人々の人間関係を中心とした人的要素です。競馬に携わる人としては、調教師(注6)、騎手(注7)、馬主(注8)等々の多くの人がいます。しかしながら、競馬に携わる人にも限りがあり、調教師になるためには試験に合格しなければなりませんし、騎手になるためには競馬学校の過程を修了し、試験を受けて合格する必要があります。また、馬主には厳しい資格制限があります。言ってみれば、閉じた世界です。例えるなら、競馬の世界が1つのムラのようなものです。ということは、AさんBさんは仲がいいけど、AさんとCさんは仲が悪い、とかいうことがあります。暴力沙汰も起こったりしていますから、この点については間違いがありません。そして、この人間関係から、レースで上位に来る馬を予想するわけです。また、調教師も人間ですから、いろいろな癖もあります。これらを分析して予想することもできます。
 最後にレースに出走するサラブレッドの特徴です。サラブレッドは機械ではありません。生き物です。しかも、馬券を買う人とサラブレッドは直接にコミュニケーションをとることはできません。ひょっとすると、調教師や騎手の方も厳密な意味でコミュニケーションがとれているわけではないと思います。ですから、これまでの競争成績から、いろいろな傾向を読み解くことが必要になります。そして、その傾向を今回のレースに落とし込むとどうなるか、という点を考えるわけです。
 以上の3点を、次回以降の各論で明らかにしていきたいと思います。また、週末が近づいてきたので、今週から、この競馬予想理論を用いて検討した予想と投資、結果を掲載していきたいと思います。

(注1)レースに出走する馬のいろいろなデータが掲載されている表です。
(注2)詳細は各論に入ってから述べますが、競馬は血のスポーツといわれています。父、母、母の父(つまり祖父)等々が記載されています。兄弟が記載されている出馬表もあります。
(注3)血統について簡単に知る本として、吉沢譲治・著『競馬の血統学―サラブレッドの進化と限界―』NHK出版(1997年)がお勧めです。

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著者:吉沢 譲治
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(注4)父となるサラブレッドです。
(注5)中央競馬会が開催する競走には細かくランクが分けられており、その中でもっとも賞金が高いレースの区分です。賞金が下がるにつれてGⅡ、GⅢ、オープン等々という区分があります。
(注6)サラブレッドを調教する責任者です。
(注7)レースでサラブレッドに乗る人です。
(注8)サラブレッドの所有者です。

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競馬予想理論総論2(予想とはどのような行為か)

 昨日述べたとおり、競馬には賭博という側面があります。
 この仕組みを簡潔に説明すれば、各人が賭けたお金(つまり馬券の売上)を一旦プールし、的中者に投票(注1)口数に応じて分配する、ということです。で、ここからが重要なことですが、プールしたお金の一部について、中央競馬であれば日本中央競馬会(以下当ブログでは「JRA」と略します。)が控除します。この控除される割合のことを控除率といいますが、原則としては25%となっていたと思います(注2)。従って、各投票につき的中確立が同様に確からしいとすれば、期待値が100%を超えることは絶対にありません。それどころか、75%の期待値しかないわけです。例えば、馬券を1,000円買うと750円の期待値しかないのですから、馬券を買うたびにジリ貧に陥っていくことは必定です。しかしながら、継続的に馬券を購入している方の多くは、トータルの回収率(的中して払い戻しを受けた金額/賭けた金額)が75%を割っている、というのが実情です。これは何を意味しているのでしょうか。端的に言えば、彼らの回収率が75%を割った分、誰かの回収率が75%を超えているということです。
 以上、縷々述べてきたことをまとめれば、意識していると否とにかかわらず、どの馬券を買うのかということを考える作業は、回収率を75%以上にするための方法論の模索なわけです。これが予想です。馬券にはいろんな種類のものがありますが、まとめて言えば、競争の結果、上位の順位となるのはどの馬かを当てることによって払い戻しを受けることができるわけです。従って、予想により、上位の順位となるのはどの馬か、ということを考えるわけです。
 予想というのはこのような作業のことなのですが、この作業においては、馬券を買う人の中に一定の規範があるのが普通です。規範とは、Aというファクターがあればαという馬券を買う、Bというファクターがあれば馬券は買わない、といったルールのことです。そして、前述の回収率が75%を超えるか否かは、このルールにかかっているわけです。裏返して言えば、回収率が75%を超えないルールは意味がないもしくは間違えているわけです。
 次回更新以降は、回収率75%以上、引いては100%以上を目指すためにどのような予想ファクターを取り入れるべきなのか、ということについて論じていく予定です。

(注1)馬券を買うことを投票といいます。
(注2)馬券の種類によって異なりますが。この点について詳しく知りたい方は、JRAのHP等から競馬法7条-9条あたりをお読みください。

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競馬予想理論総論1(競馬について)

 競馬。馬の競走。読んで字の如しで、すごく単純なものです。馬が競馬場というトラックを走って、ゴール順に順位をつける。そして、1着から順番に賞金が支払われる。…と、ここまではスポーツの範疇の話。しかし、このスポーツの範疇にとどまる限りにおいて、我々一般人は、野球で阪神ファン、巨人ファンという次元と同じ。何も参加できないわけです。野球場への入場料が競馬場の入場料と考えれば、大して違いはありません。
 ここからが重要なことですが、他のスポーツと異なり、競馬にはレースにおける着順について、賭博の対象とされています。したがって、競馬を見る視点は常に2つ存在することになるわけです。1つはスポーツとしての視点から見る競馬。これは、純粋に阪神ファン、巨人ファンという次元と同じで、ディープインパクト(競馬をほとんど知らない人でも、この馬の名前はご存知のはずです。)ファンという方々がいます。もう1つが、賭博としての競馬。着順の予想に従い、馬券を買って、予想通りの順番又は組み合わせで上位が決まれば、掛け金を的中者で山分けするという賭博が行われているわけです。
 スポーツとしての競馬のみを楽しむという楽しみ方もあります。強い馬が強い勝ち方をするのを見ることは、気分のいいものです。また、勝てなくてもハルウララのように全国的に知名度がある馬がいます。この馬などは、応援する人間が馬券を買っていないというケースの典型だと思います。
 しかしながら、競走馬は商業動物です。ある意味において、ペットショップで売られるウサギやネコと同じように、価格がつけられます。そして、その価格を決定するのは競馬における着順であり、血統であります。この点については、各論で詳しく述べるとして、競走馬達は、「競馬」という枠組みが失われれば、その存在価値を見出せない存在であることを理解してください(注)。
 さて、話はそれましたが、次回以降は、競走馬が走らなければ生きていけないということを認めた上で、賭博としての競馬を考えていきましょう。

(注)よく、頭の悪い動物愛護団体の方々が、走りたくない馬を走らせるのはおかしいなどと言いますが、そんなことを言い始めれば、我々が日々食する肉となる牛 だって、すき焼きや焼肉にはなりたくないかも知れないわけで、はっきり言って議論すること自体が無意味です。商業動物としての枠組みがおかしいと言うなら ば、牛も、豚も商業動物であり、食べることはおかしいというのでしょうか。それとも彼らはベジタリアンなのか?仮にベジタリアンだとして、植物はよくて動 物はいけないという根拠はどこにあるのでしょうか。それこそが人間のエゴなのです。競馬に携わる人で、馬を愛していない人はいないというのが私の率直な感 想です。その上で、処分される競走馬が出てくることは認めざるを得ないのです。商業動物なのですから。鳥インフルエンザが流行したときに大量のニワトリが 処分されました。それは彼らが商業動物であるからです。仮に人間への影響がなかったとしても。強力な伝染病が鶏舎に蔓延する危険性があれば、人間は彼らを 処分するのでしょう。競走馬も同じです。どんなに馬を愛する人でも、自らの生活を削って競走馬を養うことはできないのです。人間なんですから。鞭打たれ走る競走馬を直視できない人は、競馬をするべきではないのです。我々にできることは、そういう運命を辿る競走馬が少しでも少なくなるように何ができるか、ということを考えることではないでしょうか。何もデカイことをいうつもりはありません。ただ、今ある競馬を否定することなど間違えているということだけです。
 様々な批判があり得べきことを顧み ず、敢えて言えば、競馬とは、そういうものとして成立し、長い歴史を編んできた1つの事象なのです。シビアな言い方をするようですが、人間の世界でもこれ は同じでしょ。私は、競争に敗れた人間が再チャレンジする仕組みは必要だとは思いますが、競争に敗れ、再チャレンジの意欲を失った人間には社会的富の分配 は無意味に思えてなりません。

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