書籍・雑誌

何と言うか、眠れぬ夜です。

 最近、毎晩、眠る前に、のんびり読書するのが習慣になっています。
 後期に入り、授業がほとんどなくなったので、時間が自由になり、ついつい、朝寝坊し、昼前に起きて、お勉強して、ちょっと息抜きして、気がつけば夜中。そして、布団に入って、のんびり読書。こういう生活は、怠惰で情けないなぁ、と思いもします。が、その一方で、自分には、あくせくと時間に追われるような生き方ができないのも、29年ほど生きてきて、しっかりと理解しているわけで、まぁ、司法試験までの残された時間を、自分なりのリズムで乗り切り、いい結果を出せればなぁ、と思っています。

 さて、今週、読んでいた本は、森絵都著「カラフル」です。

カラフル (文春文庫 も 20-1) Book カラフル (文春文庫 も 20-1)

著者:森 絵都
販売元:文藝春秋
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 いろいろと考えさせられる本でした。ストーリーは、途中から最後のオチが見えてしまっていましたし、文章も書き言葉と話し言葉の混ざり具合が個人的には違和感があったのですが、そんな中でも、「気付く」ということの大切さを改めて考えてしまいました。

 自分自身、たった今、こうしてPCの前でブログを書いているわけですが、その周りには、いろんな物があって、更に、いろんな人ももちろん周りにいて、といった当たり前のことを考えてしまったわけです。世の中に、自分自身の精神以外に何もなければ、果たして自分自身を定義できるのか、という素朴な疑問。自分自身は、常に何かとの関係で定義されている気がします。難しいことはわかりませんが、全ての物事は、相対的にしか定義することはができないのではないか、と思うわけです。
 月並みな例を挙げれば、自分は「男」である、という定義も、「女」という他の性の存在があって、初めて可能となる(あるいは「意味のある」と言ってもいいかもしれません。)ものです。果たして他の種々の事物を全て取り除いたときに、「自分は○○である」という定義が可能か、と考えると、眠れなくなってしまいました。そして、こうしてブログの更新に勤しんでいるわけです(笑)。こういうところは、子供の頃からちっとも変わりませんね。

 この世界の様々なシーンを色に例える、という筆者の感じ方には共感できます。自分も、初対面の人間からは、色のようなイメージを感じます。そして、いろんな色に染まりながら、人は生きていくんだろう、ということにも共感できます。
 ただ、赤の絵の具に青の絵の具を混ぜたら紫になった、というような単純にはいかないのが、人間の面白いところですね。そして、その単純ではないところにこそ、人間の人間臭さがあって、また、面白みがあるんだろう、と思います。別に悟りを開いた僧侶ではありませんし、無我の境地に辿り着いたわけではありませんが、生きるというのは、ひどく泥臭く、人間臭く、格好の悪い、しかし、愛おしくて、素晴らしいことだ、と思うのです。

 最後に、「死」というものについて。
 最近、読む小説にはこれをテーマにしているものが多いです。逆に、「生」というものも、上で述べたように、「死」との対概念としてテーマになっていると考えることもできます。やはり、ここでも「死」は「生」との、 「生」は「死」との関係でしか定義できないものなんですね。それを超えて、自足的な定義をしようとすると、非常に難しい。自分のような一般人にも理解でき る(意味を感じることができる)定義は、不可能に思えてならないわけです。「死」を生物学的に心臓の停止であるとか、呼吸の停止であるとか、あるいは、脳死であるとかと定義してみたとこ ろで、具体的には「生」の反対というイメージを否定して、それ自身に意味のある定義になっているようには思えないわけです。そして、「生」についても同様で、「死」の反対、つまり死んでいないこと、と言った方が、あれこれ理屈を捏ねるより、ストレートに理解できる気がします。両者の絶対的な境界線は、学術的にはともかく、人がこの世界で生活していく上では、曖昧なもので十分意味のある定義なんだなぁ、ということを痛感します。
 しかし、そういう小説を読み耽っているからといって、別に自分自身、死にたいわけでは決してありません。何かの宗教を妄信しているわけでもないですし、「死」というものを具体的にイメージするには、自分はあまりに健康で、あまりに若すぎる、と思います。それでも、明日、道路で自動車に轢かれたりすれば、否応なしに「死」は訪れるわけです。この辺は、すごく不思議な感じです。
 では、「死」の先には、何があるんでしょうね。何もないのか、輪廻が待っているのか、救いなのか。全くわからない。まさに、あっちの世界です。あっちの世界を想像することは、こっちの世界を豊にしてくれると思います。それは、物事を複眼的に見る力。考え方を少し変えれば、世界が違って見えてくる、ということでしょう。

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土曜日の昼下がり、小考。

  ようやく日常に復帰しました。昼下がりのモスバーガー。柔らかなBGMが流れていて、暑くもなく、寒くもなく、こんな穏やかな時間には、溺れてしまうのに似た、一抹の恐怖感があります。
  先日買った江國香織氏の『ぬるい眠り』をぼんやりと読んでいて、とても興味深い作品があったので、携帯から更新します。
  タイトルは、『清水夫妻』。30頁に満たない短い作品ですが、妙に自分の感覚にパツンと嵌まってしまいました。ストーリーは、読んでのお楽しみ、ということにしておきますが、人が生き、そして死んでいく、という、ごく当たり前のことを、もう一度考えたくなる作品でした。
  最近、自分でもわかってきたのですが、私は、どうやら「人が生きる」ということ、裏を返せば「人が死ぬ」ということについて、愚にもつかないことを、あれこれと考え散らかすことが大好きなようです。
  人間だって生き物なんですから、生まれ、そして、死んでいくわけです。私は、そこに何かしらの意味がある、と信じる、今時の若者にしては珍しいオプティミストなんですね、たぶん。もちろん、意味といっても何か仰々しい、哲学めいたものではありません。他人には理解されなくても、自分自身が、意味があると思えることが大切なんだと思います。そして、どこかの誰かと、その意味の幾何かでも共有し、体現していくような仕事ができたらいいなぁ、と思います。法律家も、きっとそういうことができる仕事のはず、と思うことで、また、頑張る気力が湧いてきます。
  というわけで、お勉強に復帰します。

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小説家への敬意と老後の夢

 江國香織氏の本を、私が最初に読んだのは、もう5年くらい前になる。まだ、東京で働いていた頃のことだ。ブラブラと出かけた本屋で、奇妙な本を見つけたことが、私と江國香織氏の作品との出会いだった。青と赤の2冊の本。タイトルは、『冷静と情熱のあいだ』である。
 私は、普段から書評等を読むことは少ない。決まった作家の本を読むということも少ない。本屋で見つけて、何となく閃きに似た感覚を得た本を買って読むのが好きだからだ。それは、お祭りでくじ引きをする子供の心境に似ているかもしれない。ただ単に、面白い本であれば嬉しいし、面白くない本であれば悔しい、という感覚を味わいたいのだと思う。従って、文学だとか、芸術だとか、そういうことについての知識は全くない。これから書くことも、全て私の単なる感想である。

 休日の昼下がり、何気なく手に取った2冊の本。最初は、装丁の違う2冊の本かと思ったが、著者が違うことに気がつく。同じタイトルのついた2冊の本、という不思議な感じに、ビビビッと来るものがあった。購入することを即決すると、私は、家に帰ってどちらから読もうか、ということで頭の中が一杯になった。
 件の本は、ご存知の方も多いと思うが、別れた後のカップルの生活を、男女各々の視点から別の作家が描いたものだ。私は、すぐに小説の世界の中に引き込まれていった。
 まず、赤い本、つまり、江國香織氏の作品の方を読んだ。こちらは、主人公・あおいの視点で、もう1冊の本、すなわち青い本の主人公順正と別れたあとの生活を描いている。寝る時間を惜しんで、その日の夜に赤い方の本を読み終えた。
 翌日は月曜日だった。眠たい目を擦りながら、駅まで歩き、通勤列車で青い本を読み始めた。こちらは、主人公・順正の視点であおいと別れたあとの生活を辻仁成氏が描いた本だ。通勤時間は約45分。その間に、続きを早く読みたくさせる本だった。会社に着いてしまうことが、そして始業時間が到来することが残念だったのを、今でも記憶している。

 何故、この2冊の本に、私が吸い込まれてしまったのか、ということを考えてみると、それは、すごく当たり前のことだったと思う。数年間付き合っていた彼女と別れ、就職が決まり、生まれ育った街を離れた私と、順正の視点とがオーバーラップするのに、時間はかからなかった。逆に、別れた彼女の視点がこうあって欲しい、という都合のよい期待を、あおいの視点とオーバーラップさせていたことも想像に難くない。
 2人の作家が、2つの物語を、1つの物語にする、という洒落た構成にも好感が持てた。 それで、私はこの2冊の本を、購入後、今日に至るまでに10回以上は読んだのだった。

 上で書いたような事情もあってか、私は青の本の主人公・順正の気持ちに共感が持てた。一方、周囲の人にこの2冊の本を薦め、読み終えたときに感想を聞くと、大抵は赤い本の方がいい、という答えが返ってきた。もちろん、薦めた相手は女の子が大半だということもあるとは思うが、青い本の方は、よくわからない、という答えの方が多かった。要するに、私が世間様の感覚からズレているのだ、ということを思い知らされたのだった。なるほど、別れたあとも、何年も1人の女を想い続ける男などというのは、狂気すら感じるというのは、理解できなくはない。敢えて誤解を恐れず言えば、ストーカーとの境界線上の話のような気がしなくはない。
 しかし、果たしてそうか。共有した時間の中で、相手に自分のことだけを見ていて欲しい、と思うのは、ごく自然なことだと思われる。突然、自分の意思とは拘りなく想う相手を失くしてしまった人間が、その想いだけを持ち続けることは、そんなに狂っているとは、私には思えない。死者への想いを持ち続けることが美談であるのに、別れた相手を想い続けることが美談でないはずはない。ただし、それは現実世界での別れた相手との接触が完全に絶たれていることを条件とするのだと思う。気持ちを持ち続けることだけに止まらず、現実世界での接触関係を望んだときに、それは美談から転がり落ち、俗っぽいありふれた話へと姿を変えるだけなのだ。
 そういう意味で、物語の前半部分は、まさしく美談であり、また、後半部分は、俗っぽいありふれた話である。このバランスが、私は絶妙だなぁ、と思う。そして、同じような境遇にいた私には、順正の視点で描かれた青い本の方が、より心に響いたのだった。

 さて、『冷静と情熱のあいだ』については、この辺にしておき、江國香織氏の著書についてに話を戻そう。
 『冷静と情熱のあいだ』の次に私が読んだ彼女の作品は、『きらきらひかる』だ。この本は、薦められたので買ってみた、という、私の本棚に並ぶ小説の中では、異色の出自を持つ。
 精神を病んだ妻とゲイの夫。2人の夫婦生活を、各々の視点から描いた作品だ。この本は、今年になってから読んだ。ちょうど、後期試験の前あたりだったので、1月頃だろうと思う。月並みな言葉しか出てこないが、生き方は人それぞれ。周囲が何を言ってみても、何を思ってみても、私の人生を送るのは、私であって、他の誰でもないんだなぁ、ということをしみじみと感じた1冊だった。
 そして、昨日、この続編の後日譚も収録したという短編集『ぬるい眠り』を本屋で見つけ、嬉しくなって買ってしまった。
 短編集なので、1つ1つの物語には、それほどの厚みはない。しかし、収録されている各作品のどれをとってみても、江國香織氏の作品らしい、女性らしい文章で描かれており、らしさを強く感じられるように思った。

 ただ、江國香織氏の作品を読んでいて思うのは、パツンと自分の感覚に嵌るときと、全く嵌らないときの差が大きいということだ。例えば、恋人の呼び方1つとってみても、何となくしっくりこないときは、読んでいてなんだか疲れてしまう。文章自体が読みづらくなるので、テンポやリズムも悪い気がしてくる。
 そういえば、よしもとばなな氏と江國香織氏の文章は、似て非なるものだという話を聞いたことがあった。どちらの作品も何冊か読んでみた私の感想としては、そんなに似てるかなぁ、というものではあるが、文学部出身の方が教授から言われた、というのだから、文学を研究している方から見ると、似ているのだろう。
 巧く言えないことを知りつつも、敢えて私なりの感想を言えば、よしもとばなな氏の作品の方が、立体的で奥行きがあるような気がするのは確かだ。ただ、かといって、江國香織氏の作品が劣っている、などと分をわきまえないことを言うつもりは、毛頭ない。江國香織氏には江國香織氏の良さがあって、表現者として、小説家として、十分の力量を持っている方だと思う。
 そもそも、私は全ての小説家に敬意を持っている。それは、一度は自分が志しつつも、どうしても辿り着けなかった彼岸の世界にいる方々だからだ。金のために書いているとしか思えないような小説家でさえ、私は尊敬して止まない。自分が紡ぎ出す言葉で、意図して他人に金を払おうと思わせられることは、それはそれでスゴイことだと思うからだ。

 ここまで書いてみて、読み返し、自分でも何ともまとまりのない文章だなぁ、と思う。今日は、何となく少し長い文章を書きたかった、ということ以上に、深い意味はない。私は、自分の思っていること等を文章化することで、自分の気持ちを整理したり、疲れを癒したり、といったことができる根暗な人種なのだ。そういう意味で、ブログを書くという作業は、自己満足的であるし、そこで完結してしまっているのかもしれないなぁ、とは思う。ただ、せっかく書いた文章は、他人の目に晒さなければ、それは文章である必要がないのではないか、と思い、こうして恥を忍んで垂れ流していたりするのである。それは、老後へのささやかな努力でもあるのかもしれないと思う。
 まだ生まれてから28年。若者であることは、疑いようがない。この倍くらい生きたとき、十分な財産を作ってリタイヤし、後は悠々自適の生活を送れる、という状態になったら、午後の太陽の下、嫁と2人、日向ぼっこでもしながら、書いたものを読んでもらい、「あの頃あったことが、きっとここで現れてるんだねぇ」、などと言われながら、2人で重ねた時間を思いつつ、のんびりコーヒーでも啜るといった、ゆったりとした生活ができればいいなぁ、と思う。


冷静と情熱のあいだ―Rosso 冷静と情熱のあいだ―Rosso

著者:江國 香織
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冷静と情熱のあいだ―Blu 冷静と情熱のあいだ―Blu

著者:辻 仁成
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ぬるい眠り ぬるい眠り

著者:江國 香織
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きらきらひかる きらきらひかる

著者:江國 香織
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白石一文『すぐそばの彼方』(角川文庫(2005年))

 先日も少し書いた件の小説を読み終えたので、少し感想を書いておきたいと思います。

 まず、読み終えて思ったことは、自分の大切なものとは何か、自分にとって、何が大切なのかを決める尺度はどこにあるのか、という疑問です。
 主人公・龍彦が、さまざまなシーンでいろんなことを考えるのですが、彼が最終的に辿り着いた答えに、私は共感が持てました。確かに、男の目線で物事を考えている、という批判はあると思いますが、所詮、世の中には男と女という生き物がいるのでして、そういう意味では一定の視点から物事を考えるというのが、強ち間違いとはいえないと思うのです。私が、中性的とか、中庸とか、そういうのが嫌いなのもあるとは思いますが。それは、私が、偏っている純粋なものほど美しい、という美学の元に生きているからなのかもしれませんね。
 また、政治というものの本質を、著者が非常に私と似た捉え方をされている点にも共感できました。世の中、弱者のための政治などと、聞こえのいいことを散々吹聴するメディアが蔓延しておりますが、やはり政治の本質は強者のためにこそある、と私は思います。そして、その争いの中で、主人公・龍彦が辿り着く答えに、何か現実世界を重ね合わせてしまう自分がいるのでした。
 冒頭に書いた問いへの答えは、自分が見つけなければならない、ということが、非常によくわかる作品です。他者と共に生きることは不可避なこの世界で、それでも自分というものをしっかりと自分自身の中に確立したい、と思いました。時には共に語り、時には争い、協調し、あるいは無視し、それでも同じ時間の中で生きているんだ、という、当たり前の、しかしなかなか気付けないことを気付かせてくれる作品だったと思います。

 以上、簡単ですが、私の感想です。

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「無機質な声」

 久しぶりの完全休日。お昼過ぎまでゴロゴロして、ぼんやり寝転がって、のんびり読書。ガラス越しに差し込む太陽の光は、少しだけ春の匂いがする。
 読みかけになっていた白石一文氏『すぐそばの彼方』を開く。無数の言葉が連なる中に、私は「無機質な声」という言葉を見つけた。ともすれば、言葉のイメージだけで読み進めてしまうことが多い小説というジャンルの読み物。その中にあって、私にはこの言葉が、とても、とても輝いて見えた。
 「無機質な声」とはどういう意味か。おそらく、この言葉は著者の比喩的な造語だと思われる。「無機質」の意味は、三省堂・大辞林[第2版]によれば、「鉱物の性質をもつこと。また、そのもの。生物が関与する以前に存在する物質。」らしい。
 何故、私がこの言葉に目を留め、そして、長時間も眺めていたのか、と言えば、この「無機質な」という表現を、私も使ったことがあるからだ。

 それは、私がまだ高校生だった頃のことである。もう10年以上前の話になってしまった。
 校内の実力テストにおける国語(現代文)の試験で、私は生まれて初めて赤点ギリギリの点数を取った。その試験には、小説を読み、主人公の気持ちを書かせる問題が出題されていたと記憶している。そして、その解答に「無機質な」という表現を使って、大きなバツを付けられていたのを思い出したからだ。
 解答する流れの中で、自然と書いてしまった「無機質な」という表現。確かに、辞書を調べても、「無機質な」という言葉はない。従って、国語の試験の解答としては不適格だったのは、疑いようがない。

 しかし、こうして10年の時を越えて、目の前に同じ言葉を書く他人を発見し、私は正直、とても感動している。国語の教師にさえわかってもらえなかった表現。国語の試験では、主人公の気持ちについての論述としてすら許されなった表現。それが、最近、読み漁っているお気に入りの作家の文章に見つけたのだから、それも当然と言えば当然だ。
 「無機質な声」というのは、「無機質」(名詞)+「な」(助詞)+「声」(名詞)という構造。「無機質」の意味が上のような意味なのだから、「無機質な声」という言葉の意味としては、意訳すれば、「感情の起伏のない音」(「声と」いう言葉から感情を取り去ったイメージ。ゆえに「音」とした。)くらいだろうか。
 まぁ、小難しい国語の話は、ここで何かを書けるほど私に能力もないので(国語は苦手ななので)、このあたりで止めておこう。
 今日、ここに書きたかったのは、同じ表現を使う人を発見した素朴な喜びだけである。もっと白石一文氏の著書を読み進めれば、こんな自分にしか味わえない奇妙な感動に出会えるかもしれない、と思うと、法律書を読む時間を割いて、小説を読む時間にしようか、などととんでもないことを考えたりもするが、現実世界を見据え、それは止めておくことにしよう。
 ただ、今日は完全休日。のんびり昼下がりの陽の光の中で、もう少しだけお気に入りの作家の文章に酔うこととしたい。

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白石一文氏の著書

 まだまだ追試が残っているので、気を抜いてはいけないのですが、何というか、春休みモードで昼間から小説を読んだりしています。
 前に一度、ここで書かせていただいた白石一文氏の著書をのんびり読んでいます。
 この方の感じ方、好きです。決して明るい話ではないのですが、その先に何があるか、ということを考えさせられる小説です。常々、人は本質的に孤独だと感じている自分としては、その孤独とはいったいなんなのか、とか、その孤独の先に何があるのか、とか、他人からみればひどくくだらない、そして暗いことを考えさせられる小説に、少し嵌っています。
 例えば、言葉は、いろんなものにラベルを貼ることになるから暴力だ、という感じ方もあるし、言葉があるからこそ、他人との距離を縮められる、という感じ方もあると思います。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているわけではありません。そういう正解のないものが、いっぱいあるんだと思います。それを、どう自分は考えるのか、ということを見つめなおすきっかけをくれる小説です。先日は『僕のなかの壊れていない部分』を読んでいたのですが、今は、短編集(になるのかな?)『不自由な心』(角川書店)を読んでいます。これを読み終えたら、追試を乗り切り、『一瞬の光』(角川書店)を読もうと思っています。

 昨今、世の中には理解しがたいことが多すぎて、自分は、少し心が食傷気味です。一度、自分自身を見つめなおし、自分自身を取り巻く世界を見つめなおして、気分を一新したいと思います。

不自由な心 Book 不自由な心

著者:白石 一文
販売元:角川書店
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一瞬の光 Book 一瞬の光

著者:白石 一文
販売元:角川書店
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