言葉の大切さ
こんばんわ。久しぶりの更新です。
皆さんは、何か宗教を信じておられますか??自分は、幼少の頃は教会に通っていましたが、現在は、客観的には無宗教、という感じですね。勿論、洗礼などは受けていませんし。
もし、皆さんが無神論者であったとして、あるいは、何らかの神、仏等の存在を信じているとして、それを他人に説くことに意味があると思いますか?無神論者の方には、神が存在しないことの科学的論証が可能か、ということを問い、何らかの神、仏等の存在を信じている方には、その存在を科学的に論証可能か、ということを問うとすれば、それが可能な方は誰もいないのではないか、と自分は思います。では、それを他人に説くことに意味があるか、と問われれば、そこには一定の意味があると思われます。それは、人間は、もはや1人で生きていくことができない生き物になってしまい、何らかの価値観を共有するという作業が、共に暮らす(これは家庭を作る等の意味ではなく、同じ社会の一員として存在する、という意味です。)上では不可欠ではないか、と考えるからです。
しかし、こういう神、仏等の存在、あるいは不存在を他人に説くときに、その前提として大切だと思うことは、自分が信じる神、仏の存在、あるいは不存在を他人に押し付けるべきではない、ということだと思います。それは、自分自身の心、あるいは信念の中では確かなものかもしれませんが、それを他人に説くという行為は、まさに、他人の心、あるいは信念の中で自分と同じ確かなものを持ってもらう、ということだからです。ハナから押し付けるとすれば、それは、ゴールを急ぎすぎて、結局、ゴールに辿り着けない、という過ちを犯すことになりかねません。では、どう説くべきなのか。まず、その前提は、共通認識の構築であると、自分は考えています。自分が説きたいことは、ずっと先にあるかもしれませんが、その前提の土台作りから始めることが肝要であると思うわけです。そして、その最大のツールは言葉ではないか、と考えます。自分が感じ、考え、あるいは発見し、もしくは疑問を持つなどしたことについて、どうすれば適切に伝えられるか、ということを考えながら、言葉を紡ぐことは、上述したゴールへの最大の近道ではないでしょうか。
例えは悪いですが、自分があるカルト宗教の信者だとして、新たな信者の勧誘をする、という場面を想像してみてください。道端で初めて会った人を、あるいは自分の友人を勧誘するときに、のっけから「○○を信じないというのは間違えている」と言ってしまえば、馬鹿にされて終わると思いませんか??あるいは、「自分は○○を信じているのだから、貴方も信じてください」と頼んでみても、よほどの何も考えていない相手以外には受け入れられようはずがないことは、想像に難くありません。だからこそ、カルト宗教の勧誘は、あの手、この手を使って信頼の土台を作るわけです。この勧誘の際の武器が言葉だと思います。しかしながら、この作業の途中で、折角築いた土台が破壊されると、前の労力よりもかなり大きな労力をかけなければ、同じところまで戻ってはこれなくなると思います。何故ならば、前の土台が壊れたということによって、その下にあったものも崩れているからです。
言葉を武器に勧誘するときに、一番気をつけるべきは、筋道を立てて、定義をハッキリとさせながら進めることです。
以下は、宗教の話ではありませんが、マルチ商法の勧誘とかでは、相手の質問に的確に答え続け、相手を納得させる、という手法がとられることがあります。勿論、的確というのは程度概念ですし、数学のように答えが1つのものもあれば、いろんな答えが考えられるものはありますが、大切なことは、自分の答えと相手の認識した答えに齟齬を作らないことでしょう。偶々、相手が善解してくれたおかげで勧誘できたとしても、それは偶然の産物であり、効果的な勧誘を続けることはできません。こういう局面にぶち当たったマルチ商法の勧誘をする方が採るべき手段は2つです。まず、自分には向かないとしてマルチ商法の勧誘を諦める、という手段。もう1つは、どうすれば偶然の産物ではなく、必然的に相手を勧誘するかを真剣に考え、自分なりの工夫をする、という手段。後者で効果が出ないならば、前者の手段のみが残るわけです。まぁ、マルチ商法の場合、自分の支出と収入のバランスから、諦めるに諦められない、なんてことも往々にしてあるんでしょうが(笑)。一番迷惑なのは、後者の選択肢をとらず、さりとて、諦めるでもなしに、タラタラと同じことを繰り返す方でしょう。友人の会社の先輩に、マルチ商法と思われるものに嵌っている方がいるらしいのですが、その先輩が、友人をしつこく勧誘してくるそうです。毎回、勧誘するものは違うらしいのですが、毎回、説得力がないことをツラツラと自分の気の済むまで話して、断られてを繰り返しているそうです。友人は、結構、人がよいので、「アホやなぁ」と思いつつも、毎回、話は聞いてあげていたようですが、先日、「じゃぁ、このビジネスモデルの場合、会員に支払われる金銭の原資はどこから出るんですか」という、マルチ商法の肝の部分に切り込んだ質問をし、先輩を論破して以来、その先輩からの勧誘は止んだそうです。こういう方は、勧誘に向かないんでしょうね。まぁ、勧誘した相手がコンサルに勤める人間だけに、相手が悪い、というのもあるんでしょうが。
ある事象が真である場合に、そこから適切な論理に従って演繹される命題は、常に真です。しかし、宗教の世界では、演繹的に論証することは、およそ不可能です。逆に、演繹的に論証が可能であるとすれば、それは宗教ではないと、自分は思います。
しかし、世の中には、カルトも含めれば、夥しい数の宗教が存在します。誰がどの宗教の信者になるかは、極めて個人的な問題であり、他者に迷惑をかけない限りは最大限に尊重すべきことであろう、と思います。が、他者の迷惑が一定のラインを超えるならば、その宗教自体を攻撃することもあり得るのではないか、とも思います。地下鉄で毒ガスを撒くなど論外ですが、事そこに至らずとも、他者の平穏な生活を、軽微な―言い換えれば、受忍限度と考えられる範囲の―精神的苦痛を超えて、例えば生命、身体の安全、あるいは財産を奪う等の害をもたらすことは、決して許されるべきではないと考えるからです。
自分が信じるように、他人も何かを信じているということを、そういう方には是非、ご理解いただきい。自分が信じているものを信じてもらいたいと思うならば、まずは、共に何かを信じるに足るだけの土台作りに勤しむべきである、というのが結論です。ツーと言えばカーな仲ならともかく、そんな仲は、長年連れ添った夫婦や親子でさえも、場面によっては難しいことを考えれば難しいのですから、まして、他人様との関係においては、自分が望むことを他人に求めるならば、自分自身、相応の相手に合わせる対応が必要であると思うわけです。英語しか話せない方に、いくら日本語で話しかけて、通じるわけがないのと同じです。英語が話せないならば、ジェスチャーで、あるいは表情で、自分の伝えたいことが伝わる努力をすべきですし、それができないならば、伝えることを諦めるのが正しい選択でしょう。しかし、そのとき、相手が日本語を話せないから悪い、と思ってはいけません。相手は、伝えてもらいたくない、と思っているかもしれませんから。
上述のマルチ商法の話でも、その先輩が、友人について、マルチ商法の素晴らしさが理解できないコイツが馬鹿だ、と思っては、救いようがないと思いませんか。あるいは、カルト宗教の勧誘をする方が、自分の信じる神を信じない貴方は不幸になる、と捨て台詞を吐くことが、どれだけ空しいことか、ということを考えてみてください。
クリスマス直前、従姉の娘(おそらく5歳)がハワイから来日し、言葉について、いろいろ考えている今日この頃。彼女はネイティヴなアメリカ人ですから、日本語が全く話せなかったんです。彼女と接する中で、人類が手にしたこの素晴らしいツールを、生かすも殺すもその人次第だなぁ、と実感しています。子供は、ある面において傲慢ですが、一方で、ある面において謙虚です。自分が話す言葉を周囲の人間が理解しないことを全身で感じ、物凄い速さで日本語を吸収しています。そして、自分の意思を伝えるために、片言ながら日本語を話します。大人は、逆に、ある面において謙虚ですが、ある面において傲慢です。現在の自分自身が、彼女と同じ環境に身を置かれれば、果たしてあそこまでの言語適応能力を見せられるか、という疑問がフツフツと湧いてきています。
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