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2007年10月

何と言うか、眠れぬ夜です。

 最近、毎晩、眠る前に、のんびり読書するのが習慣になっています。
 後期に入り、授業がほとんどなくなったので、時間が自由になり、ついつい、朝寝坊し、昼前に起きて、お勉強して、ちょっと息抜きして、気がつけば夜中。そして、布団に入って、のんびり読書。こういう生活は、怠惰で情けないなぁ、と思いもします。が、その一方で、自分には、あくせくと時間に追われるような生き方ができないのも、29年ほど生きてきて、しっかりと理解しているわけで、まぁ、司法試験までの残された時間を、自分なりのリズムで乗り切り、いい結果を出せればなぁ、と思っています。

 さて、今週、読んでいた本は、森絵都著「カラフル」です。

カラフル (文春文庫 も 20-1) Book カラフル (文春文庫 も 20-1)

著者:森 絵都
販売元:文藝春秋
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 いろいろと考えさせられる本でした。ストーリーは、途中から最後のオチが見えてしまっていましたし、文章も書き言葉と話し言葉の混ざり具合が個人的には違和感があったのですが、そんな中でも、「気付く」ということの大切さを改めて考えてしまいました。

 自分自身、たった今、こうしてPCの前でブログを書いているわけですが、その周りには、いろんな物があって、更に、いろんな人ももちろん周りにいて、といった当たり前のことを考えてしまったわけです。世の中に、自分自身の精神以外に何もなければ、果たして自分自身を定義できるのか、という素朴な疑問。自分自身は、常に何かとの関係で定義されている気がします。難しいことはわかりませんが、全ての物事は、相対的にしか定義することはができないのではないか、と思うわけです。
 月並みな例を挙げれば、自分は「男」である、という定義も、「女」という他の性の存在があって、初めて可能となる(あるいは「意味のある」と言ってもいいかもしれません。)ものです。果たして他の種々の事物を全て取り除いたときに、「自分は○○である」という定義が可能か、と考えると、眠れなくなってしまいました。そして、こうしてブログの更新に勤しんでいるわけです(笑)。こういうところは、子供の頃からちっとも変わりませんね。

 この世界の様々なシーンを色に例える、という筆者の感じ方には共感できます。自分も、初対面の人間からは、色のようなイメージを感じます。そして、いろんな色に染まりながら、人は生きていくんだろう、ということにも共感できます。
 ただ、赤の絵の具に青の絵の具を混ぜたら紫になった、というような単純にはいかないのが、人間の面白いところですね。そして、その単純ではないところにこそ、人間の人間臭さがあって、また、面白みがあるんだろう、と思います。別に悟りを開いた僧侶ではありませんし、無我の境地に辿り着いたわけではありませんが、生きるというのは、ひどく泥臭く、人間臭く、格好の悪い、しかし、愛おしくて、素晴らしいことだ、と思うのです。

 最後に、「死」というものについて。
 最近、読む小説にはこれをテーマにしているものが多いです。逆に、「生」というものも、上で述べたように、「死」との対概念としてテーマになっていると考えることもできます。やはり、ここでも「死」は「生」との、 「生」は「死」との関係でしか定義できないものなんですね。それを超えて、自足的な定義をしようとすると、非常に難しい。自分のような一般人にも理解でき る(意味を感じることができる)定義は、不可能に思えてならないわけです。「死」を生物学的に心臓の停止であるとか、呼吸の停止であるとか、あるいは、脳死であるとかと定義してみたとこ ろで、具体的には「生」の反対というイメージを否定して、それ自身に意味のある定義になっているようには思えないわけです。そして、「生」についても同様で、「死」の反対、つまり死んでいないこと、と言った方が、あれこれ理屈を捏ねるより、ストレートに理解できる気がします。両者の絶対的な境界線は、学術的にはともかく、人がこの世界で生活していく上では、曖昧なもので十分意味のある定義なんだなぁ、ということを痛感します。
 しかし、そういう小説を読み耽っているからといって、別に自分自身、死にたいわけでは決してありません。何かの宗教を妄信しているわけでもないですし、「死」というものを具体的にイメージするには、自分はあまりに健康で、あまりに若すぎる、と思います。それでも、明日、道路で自動車に轢かれたりすれば、否応なしに「死」は訪れるわけです。この辺は、すごく不思議な感じです。
 では、「死」の先には、何があるんでしょうね。何もないのか、輪廻が待っているのか、救いなのか。全くわからない。まさに、あっちの世界です。あっちの世界を想像することは、こっちの世界を豊にしてくれると思います。それは、物事を複眼的に見る力。考え方を少し変えれば、世界が違って見えてくる、ということでしょう。

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流れるヘッドライト

 秋は、少し物哀しい空気とともに、何となくいつもよりも透明な空気を連れてきてくれます。こんな日は、幹線道路のバス停のベンチで、ぼんやりヘッドライトが流れていくのを眺めるのが、とてもいい気分です。
 やる気を充電中です。ぼんやりして、元気を出して、やる気を復活させなければ、と思います。

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鹿児島本線で行く旅路

 結婚式、お開きになりました。新郎新婦とも、幸せそうで何より。でも、奴に先を越されるとは、と思っていたり(笑)。
 そういえば、学部の卒業の直前、内定をもらって、赴任地が大牟田とわかってから、どんなところか下見がてらに奴の実家(北九州)からこの電車に乗っていきました。あれから7年近くの時間が過ぎ、自分が三十路の手前というのは、にわかには信じがたいですね。人は、日々成長を続けるものですが、本当に自分が成長しているのかは、おおいに疑問です。確かに腹回りには貫禄が出てきたのですが(笑)。今夜は、少し電車での移動時間が長いので、長文で更新しますね。

 最近は、酒もめっきり弱くなり、とても二十歳の頃のように徹夜でなど飲めません。でも、相変わらず、1杯目のビールは美味いし、美味しい魚を食べると、純米酒が飲みたくなる今日この頃。
 後日、気が向けば、別途、改めて感想は書くつもりですが、この九州旅行中、時間があるので1冊の本を読みました。そして、それに感化されたからか、涙腺が緩くて困っていたりします。その本とは、白石一文著『私という運命について』(角川書店)です。
 前にも何度かこの著者の本について書いたことがありますが、本当に、著者が描く男と自分との思考回路の類似性に驚かされます。女の目から見たら、なんてダメな男だろう、なんて身勝手な男だろう、と思うかもしれません。昨今、ジェンダーフリーが叫ばれる中、さりとて、そのジェンダーフリーも、突き詰めれば合理的な理由のない、幾多もある中の1つの価値観の押し付け以外の何物であるか、という疑問を禁じ得ない自分としては、この作品で描かれている白石一文氏という1人の男が描いた1人の女の生き方に、共感しきりであったわけです。その意味で、主人公・亜紀は、男みたいな女なのかもしれませんね。
 恋愛、結婚、出産、別離、再会…。人生の節目、節目に男の都合で展開していくストーリーは、反感を覚える方も多数おられることとは思います。しかし、自分は、現実世界で、こういう都合のいい展開を期待して止まないわけで、夢見る乙女ならぬ、夢見るおっさんなわけです。そして、その中で幸せとは何か、ということを、繰り返し読者に考えさせる、この白石一文氏は、自分にとっては、教祖?のような方です。幸せを掴むか否かは、掴む気があるかどうかに依ると思いますし、掴むためには掴みたいという明確な意志が必要だ、という著者の価値観も、自分には、すっと入ってきましたし。
 幸せを測る尺度は、自分のオリジナルであり続けたい。そう思わせてくれる作品でした。

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阪九フェリーの上

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 現在、九州へ向けて航行中です。少し、肌寒い潮風を全身に感じながら、デッキで独り、ビールを飲んでいます。瀬戸内海を大阪から新門司まで、12時間ほどで運んでくれるこのフェリー。夜景がとっても素敵なんです。大阪、神戸、明石と、まるで小さな宝石を散りばめたようなキラキラと輝く街の灯です。
 元来、飛行機嫌いということもあり、学生時代から船をよく利用するんですが、やはり、この船からの夜景は素晴らしいです。写真は、明石海峡大橋と明石の夜景です。携帯のカメラで撮影したので、あまりキレイに撮れていませんが、これでもめちゃくちゃキラキラなのは、わかっていただけるのではないかな、と思います。

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『デッドエンドの思い出』

 久しぶりにこちらも更新です♪。

 新学期が始まりましたが、おかげさまで前期の間に卒業に必要な単位は全て取得できました。よって、後期は興味がある科目だけ出席する予定にしています。

 お勉強しなければならないなぁ、とは思いつつ、少し時間に余裕ができたので、久しぶりに小説を読んでみました。その本は、『デッドエンドの思い出』(よしもとばなな著・文春文庫)です。
 「デッドエンド」という言葉の意味は、「①行き止まり。袋小路。②物事が行きづまった状態。」ということらしいです。「袋小路」とは、「 行き止まりになっている小路。転じて、物事が行き詰まること。袋道。」なので、要するに、行き詰まった思い出というような意味合いになるわけです。
 この本自体は短編集なので、他の作品も一緒になっているわけですが、その中でも、このタイトルがつけられた作品が、すごく気に入ってしまいました。

 文章の読み手側の想像が、少し掠れたような、それでいて、輪郭だけはハッキリとした感じを抱かせる作品でした。
 最近、よく思うのですが、結構、自分は物事についての考え方が、女々しいというか、女性的というか。とかく、男の視点というものへ憧れはするけれども、現実世界で、まさに、現実に考えていることといえば、何と言うか、現実的で、つくづく嫌になります。夢を語れる男になりたい、と思うのですが、実際は、夢を現実サイズへとダウンサイジングするのがやたらと得意なわけです。それはそれで、手堅い生き方だとは思いますが、自分の限界線を自分自身で引いているせいで、本当の限界まで頑張ることができない、というかなり大きな弱点を孕んでいるのです。
 「頑張る」というのは、これはこれで1つのスキルなんだなぁ、と思います。決してイヤミでも何でもなく、能力なんてなくても、「頑張る」ことができる人ってスゴイと思います。結果を出す能力はなくても、「頑張る」という能力は、遺憾なく発揮されているわけですから、単なる結果だけでなく、そのプロセスも含めて考えてみれば、それは素晴らしいことだと思います。

 で、何故このような話を書いているかというと、この本を読んで、こういう自分自身の思いが、より強くなったからです。自分自身の本当の限界を、自分自身が知ることができたら、どんなにか素晴らしいだろう、と思うのです。そして、それに気付いていく主人公・横山ミミの姿が、どこか自分自身にオーバーラップするような気がして、本当に気持ちのいい作品でした。幸せというものは、どういう形をしているのか、あるいは、形なんてないのか、どういう風に手に入れるのか、それとも手に入れることはできないものなのか。いろんなことを考えながら、あっという間に読み終えていました。

 特に、印象に残った一節を。

 今ならわかる。最低の設定の中で、その時私は最高の幸せの中にいたんだということが。
 あの日の、あの時間を箱につめて、一生の宝物にできるくらいに。その時の設定や状況とは全く関係なく、無慈悲なくらいに無関係に、幸せというものは急に訪れる。どんな状況にあろうと、誰といようと。

 そういう感じ方が、どこか自分自身と重なったわけです。

 以上、感想でした。

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