公務員とマスコミ
最近、マスコミ報道で公務員バッシングが激しい。自分に言わせれば、マスコミ関係で働いている人間が、公務員を非難する資格などあろうか、と思う。
戦後のこの国の発展の根幹を支えてきたのは、官僚機構であり、公務員である。多種多様な産業が、今日、この国の中にある。それらが勝手に発展したのであって、国、公共団体、政治は関係ない、という理解は誤っている。規制し、あるいは奨励し、多様な価値の調整を続けた結果として、今日があるということを、忘れてはならないと思う。たくさんの問題があることは、真摯に受け止めねばならないし、その改善も必要であろう。しかし、果たして官僚機構や公務員は、マスコミが騒ぐほど害悪だけを垂れ流す組織なのだろうか。
先般、夕張市が財政破綻した、という報道に際して、「夕張市の市議は、給料なんてなしでよい」的な発言をしたマスコミ関係者がいた。本気でそんなことを考えているのだろうか。夕張市の市議にだって、家族もいれば、生活もある。確かに議員は、私益を捨て、公益のために全てを捧げるという理想論は理解はできる。しかし、生きていけないような給料しか得られなければ、その仕事のどこにモチベーションを見出すのか。ワーキングプアの問題と、本質的に同じ議論であるはずなのに、一方で給料はなしでよいと言い、他方で派遣社員の給料の安さが問題だと言う。そこに、「仕事」と「給料」についての明確な考え方があるとは、到底思われない。あるいは、議員は、一部の財産的に裕福な人間だけがやればいい、とでも言うのだろうか。しかし、それは、1人1人の国民が政治を考えるべき、という従前の主張と矛盾してしまう。こういう無責任な言動を、公共の電波を使って日本中に垂れ流すことが、とても危険なことに思えてならない。
確かに、夕張市の市政に様々な問題があったことは事実であろう。それ故に財政破綻という結果に至ってしまった。しかし、全く夕張市の市政が何ももたらさなかったわけではあるまい。エネルギー革命の荒波の中、炭鉱の町として栄えた地方都市を、いかに盛り上げていくか、ということを真剣に考えて仕事をしてきた職員・議員の方も大勢おられたと思う。それを、片面的で、面白おかしくニュースを垂れ流し、夕張市の職員が悪くて、住民は悪くないという報道を繰り返しているマスコミ。
自分は、「夕張市の市議に給料は不要」的な一言の中に、マスコミの体質を見てしまった。時代の潮流をマスコミが作るという事実は、これを認めねばなるまい。であるならば、彼らに報道についての責任をしっかりと問えるような枠組みを作るべきではないか、と思う。が、現時点では、具体的な方法が思い浮かばない。
政治家と異なり、彼らは、選挙で国民の信を問うということがない。テレビであれば、そこにあるのは、視聴率という数字。けれども、立ち止まって考えてみると、視聴率とは、本来的には広告の価値を測る指標であって、マスコミ報道に対する国民の支持を測る指標ではないはずである。そして、その数字を競い合っているテレビ局各社。このことを、もう一度考えてみる必要があるのではないか。
「マスコミは主義・主張を持て」、というのは言いすぎかもしれない。が、まずは正確な事実を国民に伝える必要があろう。その部分すら満足にできていないのに、信念もなく、批判を繰り返すのは、正直、愚民政治を誘導しているとしか思えない。国民が接することのできる情報は、IT技術の発展で飛躍的に増加したとは言え、無数に転がっている情報の中から、どれが正しくて、どれが正しくないのかを、各人が全て判断することは、およそ不可能である。それ故に、一つの権威として、例えばテレビで報道されていた、ということが位置づけられているのである。とある情報番組が、納豆で社会問題を引き起こしたが、これなどは、いい例だと思われる。そのような中で、無責任な発言を繰り返す、片面的な情報しか提供しない、というマスコミの体質は、独善的と批判される官僚機構と五十歩百歩ではないか、と思えてならない。
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