よいお年を☆彡
こんばんわ。もう、紅白歌合戦も終盤。今年も残すところあと僅かとなりました。
これまでのご愛顧に感謝して、そして、皆様の来年のご多幸をお祈りしつつ、今年最後の更新とします。よいお年をお迎えください☆彡。
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こんばんわ。久しぶりの更新です。
皆さんは、何か宗教を信じておられますか??自分は、幼少の頃は教会に通っていましたが、現在は、客観的には無宗教、という感じですね。勿論、洗礼などは受けていませんし。
もし、皆さんが無神論者であったとして、あるいは、何らかの神、仏等の存在を信じているとして、それを他人に説くことに意味があると思いますか?無神論者の方には、神が存在しないことの科学的論証が可能か、ということを問い、何らかの神、仏等の存在を信じている方には、その存在を科学的に論証可能か、ということを問うとすれば、それが可能な方は誰もいないのではないか、と自分は思います。では、それを他人に説くことに意味があるか、と問われれば、そこには一定の意味があると思われます。それは、人間は、もはや1人で生きていくことができない生き物になってしまい、何らかの価値観を共有するという作業が、共に暮らす(これは家庭を作る等の意味ではなく、同じ社会の一員として存在する、という意味です。)上では不可欠ではないか、と考えるからです。
しかし、こういう神、仏等の存在、あるいは不存在を他人に説くときに、その前提として大切だと思うことは、自分が信じる神、仏の存在、あるいは不存在を他人に押し付けるべきではない、ということだと思います。それは、自分自身の心、あるいは信念の中では確かなものかもしれませんが、それを他人に説くという行為は、まさに、他人の心、あるいは信念の中で自分と同じ確かなものを持ってもらう、ということだからです。ハナから押し付けるとすれば、それは、ゴールを急ぎすぎて、結局、ゴールに辿り着けない、という過ちを犯すことになりかねません。では、どう説くべきなのか。まず、その前提は、共通認識の構築であると、自分は考えています。自分が説きたいことは、ずっと先にあるかもしれませんが、その前提の土台作りから始めることが肝要であると思うわけです。そして、その最大のツールは言葉ではないか、と考えます。自分が感じ、考え、あるいは発見し、もしくは疑問を持つなどしたことについて、どうすれば適切に伝えられるか、ということを考えながら、言葉を紡ぐことは、上述したゴールへの最大の近道ではないでしょうか。
例えは悪いですが、自分があるカルト宗教の信者だとして、新たな信者の勧誘をする、という場面を想像してみてください。道端で初めて会った人を、あるいは自分の友人を勧誘するときに、のっけから「○○を信じないというのは間違えている」と言ってしまえば、馬鹿にされて終わると思いませんか??あるいは、「自分は○○を信じているのだから、貴方も信じてください」と頼んでみても、よほどの何も考えていない相手以外には受け入れられようはずがないことは、想像に難くありません。だからこそ、カルト宗教の勧誘は、あの手、この手を使って信頼の土台を作るわけです。この勧誘の際の武器が言葉だと思います。しかしながら、この作業の途中で、折角築いた土台が破壊されると、前の労力よりもかなり大きな労力をかけなければ、同じところまで戻ってはこれなくなると思います。何故ならば、前の土台が壊れたということによって、その下にあったものも崩れているからです。
言葉を武器に勧誘するときに、一番気をつけるべきは、筋道を立てて、定義をハッキリとさせながら進めることです。
以下は、宗教の話ではありませんが、マルチ商法の勧誘とかでは、相手の質問に的確に答え続け、相手を納得させる、という手法がとられることがあります。勿論、的確というのは程度概念ですし、数学のように答えが1つのものもあれば、いろんな答えが考えられるものはありますが、大切なことは、自分の答えと相手の認識した答えに齟齬を作らないことでしょう。偶々、相手が善解してくれたおかげで勧誘できたとしても、それは偶然の産物であり、効果的な勧誘を続けることはできません。こういう局面にぶち当たったマルチ商法の勧誘をする方が採るべき手段は2つです。まず、自分には向かないとしてマルチ商法の勧誘を諦める、という手段。もう1つは、どうすれば偶然の産物ではなく、必然的に相手を勧誘するかを真剣に考え、自分なりの工夫をする、という手段。後者で効果が出ないならば、前者の手段のみが残るわけです。まぁ、マルチ商法の場合、自分の支出と収入のバランスから、諦めるに諦められない、なんてことも往々にしてあるんでしょうが(笑)。一番迷惑なのは、後者の選択肢をとらず、さりとて、諦めるでもなしに、タラタラと同じことを繰り返す方でしょう。友人の会社の先輩に、マルチ商法と思われるものに嵌っている方がいるらしいのですが、その先輩が、友人をしつこく勧誘してくるそうです。毎回、勧誘するものは違うらしいのですが、毎回、説得力がないことをツラツラと自分の気の済むまで話して、断られてを繰り返しているそうです。友人は、結構、人がよいので、「アホやなぁ」と思いつつも、毎回、話は聞いてあげていたようですが、先日、「じゃぁ、このビジネスモデルの場合、会員に支払われる金銭の原資はどこから出るんですか」という、マルチ商法の肝の部分に切り込んだ質問をし、先輩を論破して以来、その先輩からの勧誘は止んだそうです。こういう方は、勧誘に向かないんでしょうね。まぁ、勧誘した相手がコンサルに勤める人間だけに、相手が悪い、というのもあるんでしょうが。
ある事象が真である場合に、そこから適切な論理に従って演繹される命題は、常に真です。しかし、宗教の世界では、演繹的に論証することは、およそ不可能です。逆に、演繹的に論証が可能であるとすれば、それは宗教ではないと、自分は思います。
しかし、世の中には、カルトも含めれば、夥しい数の宗教が存在します。誰がどの宗教の信者になるかは、極めて個人的な問題であり、他者に迷惑をかけない限りは最大限に尊重すべきことであろう、と思います。が、他者の迷惑が一定のラインを超えるならば、その宗教自体を攻撃することもあり得るのではないか、とも思います。地下鉄で毒ガスを撒くなど論外ですが、事そこに至らずとも、他者の平穏な生活を、軽微な―言い換えれば、受忍限度と考えられる範囲の―精神的苦痛を超えて、例えば生命、身体の安全、あるいは財産を奪う等の害をもたらすことは、決して許されるべきではないと考えるからです。
自分が信じるように、他人も何かを信じているということを、そういう方には是非、ご理解いただきい。自分が信じているものを信じてもらいたいと思うならば、まずは、共に何かを信じるに足るだけの土台作りに勤しむべきである、というのが結論です。ツーと言えばカーな仲ならともかく、そんな仲は、長年連れ添った夫婦や親子でさえも、場面によっては難しいことを考えれば難しいのですから、まして、他人様との関係においては、自分が望むことを他人に求めるならば、自分自身、相応の相手に合わせる対応が必要であると思うわけです。英語しか話せない方に、いくら日本語で話しかけて、通じるわけがないのと同じです。英語が話せないならば、ジェスチャーで、あるいは表情で、自分の伝えたいことが伝わる努力をすべきですし、それができないならば、伝えることを諦めるのが正しい選択でしょう。しかし、そのとき、相手が日本語を話せないから悪い、と思ってはいけません。相手は、伝えてもらいたくない、と思っているかもしれませんから。
上述のマルチ商法の話でも、その先輩が、友人について、マルチ商法の素晴らしさが理解できないコイツが馬鹿だ、と思っては、救いようがないと思いませんか。あるいは、カルト宗教の勧誘をする方が、自分の信じる神を信じない貴方は不幸になる、と捨て台詞を吐くことが、どれだけ空しいことか、ということを考えてみてください。
クリスマス直前、従姉の娘(おそらく5歳)がハワイから来日し、言葉について、いろいろ考えている今日この頃。彼女はネイティヴなアメリカ人ですから、日本語が全く話せなかったんです。彼女と接する中で、人類が手にしたこの素晴らしいツールを、生かすも殺すもその人次第だなぁ、と実感しています。子供は、ある面において傲慢ですが、一方で、ある面において謙虚です。自分が話す言葉を周囲の人間が理解しないことを全身で感じ、物凄い速さで日本語を吸収しています。そして、自分の意思を伝えるために、片言ながら日本語を話します。大人は、逆に、ある面において謙虚ですが、ある面において傲慢です。現在の自分自身が、彼女と同じ環境に身を置かれれば、果たしてあそこまでの言語適応能力を見せられるか、という疑問がフツフツと湧いてきています。
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また、今年もこの日がやってきました。1年の内で、2番目に感傷的になる日。
10年前、大学に通っていた頃、まさか自分が10年後も同じ大学に通っているとは思いませんでした。と言っても、別に留年し続けているわけではありません。一度、社会人としての生活を始め、その後、諸般の事情から、大学院へと復帰したわけです。
明日の午前零時をもって、29歳の新しい1年が始まります。それはそれで、また、頑張ろう、という気にさせてくれる日ではあるんですが、一方で、この1年、自分は何をしてきたか、ということを振り返って、何となく暗い気持ちになるのも事実。刻一刻と迫る試験の日を前に、やらなきゃいけないことは山のようにあるはずなのですが、どうもそういう場面での頑張る力に欠ける自分がいるわけです。
基本的には、一定のペースを守って物事を進める方が向いているんでしょうね。繁忙の差が大きいのは苦手です。かといって、物凄いペースを持続できるだけの精神力を持ち合わせてもおらず、結局、ダラダラと自分のペースで頑張るしかない、ということでしょう。
明日から始まる29歳という1年が、自分自身のその後の人生を大きく左右するであろうことは、会社を辞めたときから十二分に解っていたはず。明日はたまたま授業のある日でもありますし、しっかりお勉強をしよう、と思います。
これまでの28年間で、出会い、そして、別れてきた全ての人に感謝しつつ、新しい1年を目指そう、と思うのでした。
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最近、お勉強をやる気が起きず、ダラダラと時間を溶かすのもどうかと
思い、いろいろな小説に手を出しています。ダラダラと無駄なことをする
よりは、少しは有意義かな、と思っています。
元来が、適当な人間であり、限界まで頑張る、ということが苦手な自分。
そもそも、お勉強なんて、やる気がないときにすると、頭には入らない上、
苦痛以外の何物でもありません。そんなときは、精神のリフレッシュが必
要です。弱っている精神をリフレッシュする方法は、人それぞれですが、
自分の場合は、読書とこのブログの更新がそれに当たると思います。
さてさて、タイトルの『見えないドアと鶴の空』は、再三、当ブログで
感想を書いている、白石一文氏の著作です。
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見えないドアと鶴の空 (光文社文庫 し 30-3)
著者:白石 一文 |
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この秋、大ヒットとなっているドラマ。その原作を、彼女が貸してくれたので読んでみた。東野圭吾氏の「探偵ガリレオ」。分類としては、おそらくミステリーになるのだろう。
![]() |
探偵ガリレオ (文春文庫)
著者:東野 圭吾 |
この本は、今までのミステリーとは少し赴きが違う。主人公が研究者、という点は、決して珍しいものではないが、これまでの名探偵(例えば、明智小五郎とか、金田一耕助とか、シャーロック・ホームズとか、エルキュール・ポアロとか。)が、犯罪の全体像を解き明かしていくのに対し、この物語の主人公・湯川学は、彼の興味を引いた点のみを解き明かしていく。例えば、殺人の動機とかいうものについては、ほとんど相方とでも言うべき刑事が解いていくのである。かといって、ミステリーではないのか、と問われれば、答えに窮することになる。ミステリーとして十分な種々の趣向が凝らされており、また、描かれているのは、まさに犯罪捜査活動の一場面なのである。冒頭、おそらくミステリーに分類される、と書いたのは、自分自身のこれまで考えていた「ミステリー」という小説のジャンルと少し毛色を異にするため、何となく言い切るのがはばかられたためである。
全体的な印象としては、主要登場人物以外の細かい設定が、短編集ということもあって、ほとんど描かれていない分、読者は、より想像力をかきたてられる感じがする。また、短編集であるが故に、テンポよく読み進めることができるのもいいと思う。
理系出身のこの著者独特のバックグラウンドを感じさせられる傑作だと思う。と言っても、小学生程度の理科の知識があれば、十分、楽しく読める仕上がりなのは、さすが一流作家、という一言に尽きる。登場人物も、各々にはっきりとした個性を持って描かれており、ドラマ化の話が持ち上がったのも頷ける作品だと感じた。
で、月9のドラマについて。初回こそ外出しており、ビデオの予約を忘れたため見逃したが、以後、毎週、見ている。ドラマとしては大変面白い。昨今のドラマ不振の中で、高視聴率を叩き出しているのにも納得ができる。主人公・探偵ガリレオこと湯川学を演じる福山雅治氏の独特の雰囲気がいい味をだしている、と思うし、柴咲コウ氏の女刑事もはまり役だ、と思う。コミカルにテンポよく進むストーリーにも好感が持てる。
しかし、である。主人公である探偵ガリレオこと湯川学に福山雅治氏をキャスティングしたのはともかく、少なくとも、上で感想を書いた小説内では登場すらしない女刑事役を登場させた点はいただけない。それは、ドラマを面白くなくしている、という意味では決してない。けれども、原作を読んでしまうと、月9というドラマの放送枠の持つブランドイメージを、映像化に際して無理やり持ち込んでいる印象を受ける。素材として十分に美味しい食材に要らぬスパイスを振りかけたような感じ。月9は恋愛事情を描かなければならない、という固定観念が、この小説の映像化の大きな障害となっているように感じられてならない。
これは、まさに月9の悲劇としか言いようがない。ドラマとしては面白いだけに、評価は分かれるところだと思うが、少なくとも、これでこの小説が原作です、というのはいかがなものか、と思う。もちろん、その著者、あるいは著作権者が映像化することに了解を与えているのであろうし、それをファンがどうこう言う筋合いではないのかもしれない。また、映像化されたものの権利は別人に帰属し、そのことは、とりもなおさず、映像化されたものが新たな創作物ということを意味するのかもしれない。しかし、小説等を読んでこう解釈する、という域を超えた創作が加われば、もはやそれは、模倣や贋作、あるいはタイトルの借用に等しい、と自分などは感じたりするのである。あくまでも、ファンのぼやきであるが。
素晴らしい小説、あるいは、漫画といったものをドラマ化、映画化すると、この種の問題は常に起こることだろう。それは、映像化するときに避けて通ることはできない壁なのだろう。しかし、映像化するときには、原作を忠実に再現するべきだという意見は、小説ファン、漫画ファンの間に根強いのではないかと思う。もちろん、各人毎に文字から、あるいは絵から作り上げる想像上の人物像を100%で映像化することなど、実はおよそ不可能である。が、だからといって勝手な付け加えや削除が行われてよいことにはなるまい。
確かに、著作権等の諸権利の体系の中に、当事者としてファンが入り込む余地はないだろう。映像化されて文句を言うなら映像化されたものを見るな、というのも正論であるようにも思う。けれども、ファンであるが故に、映像化されると、大方はがっかりすることになるだろうと思いつつも、見てみたいと思うものではなかろうか。また、自分がこう読んだ作品を、他の人はどう読んだのか、という点を窺い知ることができる、という楽しみもある。それに応えるような仕事を、小説、漫画等の書籍の映像化に携わる方々にはお願いしたい。ある小説、ある漫画にヒントを得た、しかし、似て非なる作品、というドラマ、映画が原作「○○○○」と騙ることが多すぎるように思えてならない。
著作権等の権利の体系には、決して当事者として登場することのない、しかし、その権利を支える無数のファンが個々に膨らませた想像を、もっと大切にして欲しい、と思う。
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最近、毎晩、眠る前に、のんびり読書するのが習慣になっています。
後期に入り、授業がほとんどなくなったので、時間が自由になり、ついつい、朝寝坊し、昼前に起きて、お勉強して、ちょっと息抜きして、気がつけば夜中。そして、布団に入って、のんびり読書。こういう生活は、怠惰で情けないなぁ、と思いもします。が、その一方で、自分には、あくせくと時間に追われるような生き方ができないのも、29年ほど生きてきて、しっかりと理解しているわけで、まぁ、司法試験までの残された時間を、自分なりのリズムで乗り切り、いい結果を出せればなぁ、と思っています。
さて、今週、読んでいた本は、森絵都著「カラフル」です。
![]() |
カラフル (文春文庫 も 20-1)
著者:森 絵都 |
いろいろと考えさせられる本でした。ストーリーは、途中から最後のオチが見えてしまっていましたし、文章も書き言葉と話し言葉の混ざり具合が個人的には違和感があったのですが、そんな中でも、「気付く」ということの大切さを改めて考えてしまいました。
自分自身、たった今、こうしてPCの前でブログを書いているわけですが、その周りには、いろんな物があって、更に、いろんな人ももちろん周りにいて、といった当たり前のことを考えてしまったわけです。世の中に、自分自身の精神以外に何もなければ、果たして自分自身を定義できるのか、という素朴な疑問。自分自身は、常に何かとの関係で定義されている気がします。難しいことはわかりませんが、全ての物事は、相対的にしか定義することはができないのではないか、と思うわけです。
月並みな例を挙げれば、自分は「男」である、という定義も、「女」という他の性の存在があって、初めて可能となる(あるいは「意味のある」と言ってもいいかもしれません。)ものです。果たして他の種々の事物を全て取り除いたときに、「自分は○○である」という定義が可能か、と考えると、眠れなくなってしまいました。そして、こうしてブログの更新に勤しんでいるわけです(笑)。こういうところは、子供の頃からちっとも変わりませんね。
この世界の様々なシーンを色に例える、という筆者の感じ方には共感できます。自分も、初対面の人間からは、色のようなイメージを感じます。そして、いろんな色に染まりながら、人は生きていくんだろう、ということにも共感できます。
ただ、赤の絵の具に青の絵の具を混ぜたら紫になった、というような単純にはいかないのが、人間の面白いところですね。そして、その単純ではないところにこそ、人間の人間臭さがあって、また、面白みがあるんだろう、と思います。別に悟りを開いた僧侶ではありませんし、無我の境地に辿り着いたわけではありませんが、生きるというのは、ひどく泥臭く、人間臭く、格好の悪い、しかし、愛おしくて、素晴らしいことだ、と思うのです。
最後に、「死」というものについて。
最近、読む小説にはこれをテーマにしているものが多いです。逆に、「生」というものも、上で述べたように、「死」との対概念としてテーマになっていると考えることもできます。やはり、ここでも「死」は「生」との、
「生」は「死」との関係でしか定義できないものなんですね。それを超えて、自足的な定義をしようとすると、非常に難しい。自分のような一般人にも理解でき
る(意味を感じることができる)定義は、不可能に思えてならないわけです。「死」を生物学的に心臓の停止であるとか、呼吸の停止であるとか、あるいは、脳死であるとかと定義してみたとこ
ろで、具体的には「生」の反対というイメージを否定して、それ自身に意味のある定義になっているようには思えないわけです。そして、「生」についても同様で、「死」の反対、つまり死んでいないこと、と言った方が、あれこれ理屈を捏ねるより、ストレートに理解できる気がします。両者の絶対的な境界線は、学術的にはともかく、人がこの世界で生活していく上では、曖昧なもので十分意味のある定義なんだなぁ、ということを痛感します。
しかし、そういう小説を読み耽っているからといって、別に自分自身、死にたいわけでは決してありません。何かの宗教を妄信しているわけでもないですし、「死」というものを具体的にイメージするには、自分はあまりに健康で、あまりに若すぎる、と思います。それでも、明日、道路で自動車に轢かれたりすれば、否応なしに「死」は訪れるわけです。この辺は、すごく不思議な感じです。
では、「死」の先には、何があるんでしょうね。何もないのか、輪廻が待っているのか、救いなのか。全くわからない。まさに、あっちの世界です。あっちの世界を想像することは、こっちの世界を豊にしてくれると思います。それは、物事を複眼的に見る力。考え方を少し変えれば、世界が違って見えてくる、ということでしょう。
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秋は、少し物哀しい空気とともに、何となくいつもよりも透明な空気を連れてきてくれます。こんな日は、幹線道路のバス停のベンチで、ぼんやりヘッドライトが流れていくのを眺めるのが、とてもいい気分です。
やる気を充電中です。ぼんやりして、元気を出して、やる気を復活させなければ、と思います。
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結婚式、お開きになりました。新郎新婦とも、幸せそうで何より。でも、奴に先を越されるとは、と思っていたり(笑)。
そういえば、学部の卒業の直前、内定をもらって、赴任地が大牟田とわかってから、どんなところか下見がてらに奴の実家(北九州)からこの電車に乗っていきました。あれから7年近くの時間が過ぎ、自分が三十路の手前というのは、にわかには信じがたいですね。人は、日々成長を続けるものですが、本当に自分が成長しているのかは、おおいに疑問です。確かに腹回りには貫禄が出てきたのですが(笑)。今夜は、少し電車での移動時間が長いので、長文で更新しますね。
最近は、酒もめっきり弱くなり、とても二十歳の頃のように徹夜でなど飲めません。でも、相変わらず、1杯目のビールは美味いし、美味しい魚を食べると、純米酒が飲みたくなる今日この頃。
後日、気が向けば、別途、改めて感想は書くつもりですが、この九州旅行中、時間があるので1冊の本を読みました。そして、それに感化されたからか、涙腺が緩くて困っていたりします。その本とは、白石一文著『私という運命について』(角川書店)です。
前にも何度かこの著者の本について書いたことがありますが、本当に、著者が描く男と自分との思考回路の類似性に驚かされます。女の目から見たら、なんてダメな男だろう、なんて身勝手な男だろう、と思うかもしれません。昨今、ジェンダーフリーが叫ばれる中、さりとて、そのジェンダーフリーも、突き詰めれば合理的な理由のない、幾多もある中の1つの価値観の押し付け以外の何物であるか、という疑問を禁じ得ない自分としては、この作品で描かれている白石一文氏という1人の男が描いた1人の女の生き方に、共感しきりであったわけです。その意味で、主人公・亜紀は、男みたいな女なのかもしれませんね。
恋愛、結婚、出産、別離、再会…。人生の節目、節目に男の都合で展開していくストーリーは、反感を覚える方も多数おられることとは思います。しかし、自分は、現実世界で、こういう都合のいい展開を期待して止まないわけで、夢見る乙女ならぬ、夢見るおっさんなわけです。そして、その中で幸せとは何か、ということを、繰り返し読者に考えさせる、この白石一文氏は、自分にとっては、教祖?のような方です。幸せを掴むか否かは、掴む気があるかどうかに依ると思いますし、掴むためには掴みたいという明確な意志が必要だ、という著者の価値観も、自分には、すっと入ってきましたし。
幸せを測る尺度は、自分のオリジナルであり続けたい。そう思わせてくれる作品でした。
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久しぶりにこちらも更新です♪。
新学期が始まりましたが、おかげさまで前期の間に卒業に必要な単位は全て取得できました。よって、後期は興味がある科目だけ出席する予定にしています。
お勉強しなければならないなぁ、とは思いつつ、少し時間に余裕ができたので、久しぶりに小説を読んでみました。その本は、『デッドエンドの思い出』(よしもとばなな著・文春文庫)です。
「デッドエンド」という言葉の意味は、「①行き止まり。袋小路。②物事が行きづまった状態。」ということらしいです。「袋小路」とは、「
行き止まりになっている小路。転じて、物事が行き詰まること。袋道。」なので、要するに、行き詰まった思い出というような意味合いになるわけです。
この本自体は短編集なので、他の作品も一緒になっているわけですが、その中でも、このタイトルがつけられた作品が、すごく気に入ってしまいました。
文章の読み手側の想像が、少し掠れたような、それでいて、輪郭だけはハッキリとした感じを抱かせる作品でした。
最近、よく思うのですが、結構、自分は物事についての考え方が、女々しいというか、女性的というか。とかく、男の視点というものへ憧れはするけれども、現実世界で、まさに、現実に考えていることといえば、何と言うか、現実的で、つくづく嫌になります。夢を語れる男になりたい、と思うのですが、実際は、夢を現実サイズへとダウンサイジングするのがやたらと得意なわけです。それはそれで、手堅い生き方だとは思いますが、自分の限界線を自分自身で引いているせいで、本当の限界まで頑張ることができない、というかなり大きな弱点を孕んでいるのです。
「頑張る」というのは、これはこれで1つのスキルなんだなぁ、と思います。決してイヤミでも何でもなく、能力なんてなくても、「頑張る」ことができる人ってスゴイと思います。結果を出す能力はなくても、「頑張る」という能力は、遺憾なく発揮されているわけですから、単なる結果だけでなく、そのプロセスも含めて考えてみれば、それは素晴らしいことだと思います。
で、何故このような話を書いているかというと、この本を読んで、こういう自分自身の思いが、より強くなったからです。自分自身の本当の限界を、自分自身が知ることができたら、どんなにか素晴らしいだろう、と思うのです。そして、それに気付いていく主人公・横山ミミの姿が、どこか自分自身にオーバーラップするような気がして、本当に気持ちのいい作品でした。幸せというものは、どういう形をしているのか、あるいは、形なんてないのか、どういう風に手に入れるのか、それとも手に入れることはできないものなのか。いろんなことを考えながら、あっという間に読み終えていました。
特に、印象に残った一節を。
今ならわかる。最低の設定の中で、その時私は最高の幸せの中にいたんだということが。
あの日の、あの時間を箱につめて、一生の宝物にできるくらいに。その時の設定や状況とは全く関係なく、無慈悲なくらいに無関係に、幸せというものは急に訪れる。どんな状況にあろうと、誰といようと。
そういう感じ方が、どこか自分自身と重なったわけです。
以上、感想でした。
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